F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

小説のタネ 1 吉川英治

tane

鳴門秘帖のころ
 
 いま帰って来たばかりなんですよ。大映の試写室で、「鳴門秘帖」を見たんですがね。考えてみると、あれを書いたのは三十年前なんだな。てれましたね、たいへんに。映画化は今度で七回目なんです。はなはね、ひと頃の競映時代で、東亜キネマとか、松竹日活だとかで、さんざん競映でやったもんですよ。だが僕は、正直いうと、自分の古いもんの映画化は、ほとんど見たことないんです。少々気味がわるくってですね。だがあの頃は一つの新聞小説勃興期でもありましたなあ。三十年前だから、今度の終戦後に興った機運とはまた違うしね。いわば関東大震災を境にしたものさ。文芸でも何でも、復興期には復興機運の波が起るんだね。当時もロマンと興味追求のああしたものが、ちょうど沢田正二郎君が新しい剣の味を舞台に見せてうけた風潮などと共に一頃非常に盛んだったわけです。その一例が「鳴門秘帖」やまた同時に掲載され出した大仏次郎氏の「照る日曇る日」なんかだったわけですね。そして僕なんかも、まだ無名の駈け出しでしたし、年も三十三、四歳でしたかな。それを僕に書かせたのは阿部真之助氏で、その大毎にはまだ千葉亀雄氏がいた時分ですよ。けれど、社から伝言の人が来たとき、僕は驚いて、たしか断ったと思いますよ。
『とても、そんな大新聞に。自分なんかには、大任過ぎる』
 と、真正直にかしこまって断ったもんですよ。
 夏でしたがね、ちょうど、日頃よく僕のうちへ遊びに来る木彫家の伊上凡骨が、隣りの部屋で、昼寝していたんです。そいつが、あとでむっくり起きてきて、
『断るやつがあるもんか、絶好のチャンスだよ、書けよ、書けよ』
 と唾を飛ばしてさかんにケシかけてくれたのを覚えています。それで、とにかく、おっかなびっくり始めたのが、あの「鳴門秘帖」の書き出しですよ。
 吉井勇氏におあいすると、よく凡骨のはなしをしますが、あれは珍重すべき畸人でしたね。長谷川如是閑さんがよくいう職人の伝統をもっていた男でもあったし、とにかく変っていて、僕の上落合の家へ遊びに来ても、喘息が持病なので、どうかすると、十日も半月もゴホンゴホンやりながら泊っている。そして、無類のぜいたくで、朝寝坊と来ているから、起きると、手を叩いてうちの女中へ『ねえさん、今朝は納豆がいい』とか、朝から、何を買ってこいとか、言っている。だから台所へくる御用聞きなどが、凡骨がいないと、
『今日は御隠居さまはお留守ですか』
 と言ったりしましたよ。その凡骨にベンタツされて初めての新聞小説をひきうけたんですから、およそ僕にそんな用意も野望もなかったことがわかるでしょう。
 そこでまあ、書きだしたもんの、正直夢中でしたね。まず予告のタイトルを社へ渡すと、千葉亀雄さんから、「鳴門秘帖」の“帖”は“帳”の間違いだろうといって来られた。間違いじゃない“帖”ですと言うと、あの人のことだから、イヤ帳の方が正しい、とその根拠や引例を電話で三十分も論じたてる。それに強情を張って、まず書くまえから一悶着でしたから、いよいよ重荷を感じましたね。
 次に、あれのヒントですが、種をあかすと、司馬江漢(江戸中期の洋画家)の随筆「春波楼筆記」があれのタネ本です。
 有朋堂文庫に入ってますね、その中に活字にして約十五、六行の一章がある。あれなんですよ、「鳴門秘帖」のエキスは。
 一口に話すとこうですね。ある年、司馬江漢が熱海へ入湯に行ったんです。すると、宿屋の裏に、大名の湯御所がある、つまり別荘です。江漢が早起きなので、未明に眼をさます頃というと、塀を隔てたその湯泉屋敷で弓弦ゆづるが聞こえる。かなり長い間、ピシッピシッと盛んな朝稽古の弓鳴ゆなりが聞え、それが止むと、やがて今度は、音吐朗々と経書を読む声がするんです、それが逗留中、毎朝、欠かすことがなかった。そこで江漢が宿の主人に、
『いったい隣りの湯屋敷は、誰のお下屋敷か?』
 と訊いてみた。すると主が、阿波の藩主蜂須賀重喜しげよしの屋敷だというんです。ところが、『それは奇異だ』と江漢がいぶかった。当時、巷の風説では、阿波の藩主蜂須賀重喜は本国で非常な暴政をやったため、幕府の譴責を受けて蟄居を命ぜられた人だということを江漢も聞いている。もし隣邸の湯御所の主君がその重喜であるならば、これは暴君どころじゃない。世には、おかしいこともあるものだ――ということを、その紀行「春波楼筆記」の中で諷刺的に書いているんです。これをヒントに僕は二、三年にわたるあんな長い空想の中に遊び呆けて書きつづけたわけなんですね。
 よく辰野隆さんなんかが、
『吉川氏は「鳴門秘帖」の前にも後にもいろいろな物を書いてるけど、面白いということにかけちゃあれが一番だな』
 と云われますが、自分にしてもそうかなアと今にして思いますね。自分が少年時代から持ってた空想の習癖をあんなに、思い果たすほど、ほしいままに駆使したことは以後無いような気がします。ただ一途でした。ですから、今日読み直すと、再版のさいも、文章など、むずむず直したくなるが、直し切れないし、直してはいけないとも思って、そのまんまにしています。
 尤もあの時代には、中間小説というケースはなかった。純文学とは河をへだててはっきり領野を対峙していたかたちでしたね。純文学の方はあくまで孤高をとって下らない矜持と作品が特徴でした。一方、新聞小説、特に夕刊面の、われわれ、直木氏、三上於菟吉氏、大仏次郎氏、白井喬二氏、長谷川伸氏といったような人々がよく書いた、ひとっきりの新聞小説っていうものは、絶対にまず面白いということをもう殆ど主眼にしてましたね。