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向かい風は南風。追い風はビル風。7 たかなしみるく。

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所謂、田舎の記憶【たかなしみるく×茨城県のどこか北の方】
  
「田舎」と聞いてまず皆様が思い浮かべる光景はどのようなものだろうか。言葉の内在的意味は受け取り手によって異なる事を前提としても、まず「周り一面畑」とか「山の中」とか「漁港のそば」とか、所謂「自然に囲まれた場所」を想像する人は多くいるだろうか。また、「盆や正月など季節の節目に親族が多く集まる場所」を想像する人もいるだろうか。最近では「田舎」と聞けば、国道沿いにそれは広大な駐車場を持った巨大家電量販店や巨大ショッピングセンターが立ち並ぶ光景を思い浮かべる人も多いだろう。ちなみに私の家は最後に上げた意味での「田舎」にある。すぐ向かいを走る国道16号線沿いに立ち並ぶのは、ダイエーとイオンタウンとドン・キホーテ。あと1年程前にドライブスルーがついたスタバが出来た。10年以上前の家の周りは畑ばかりだったものの、今ではその土地に戸建て売りの家やマンションが建設されている。でも、私にとって記憶として残っている「田舎」の光景は1つ目に上げた意味の光景だ。特に真ん中の意味の光景に関しては今後この先私が生きていく中でまた出会う事はあるのだろうか。あの記憶は思い出そうとしないとすぐに忘れてしまう。そういう場所があった事とそこで見たもの感じたもの出会ったもの。すべての記憶がおぼろげだが、そのおぼろげな記憶を紡いでみたい。だって、もうそれらの光景を目の当たりにすることはないのだから。
 

 
 その光景は茨城県のどこかにある町の一角。そこ父方の親戚の家があった。町は小高い山と畑に囲まれていて、その畑ではにんじんやじゃがいもや玉ねぎを育てていた。大きなトラクターも所有していた。それから家の裏には墓があった。持っている土地がそれだけ広ければ、家もそれなりに広かったが、間取りについての記憶なんてない。ここに向かう時には両親に「今日は茨城の親戚の家に行くよ」と言われて車に乗せられて千葉を出発してから、「着いたよ」と起こされた場所が親戚の家で、なんだかよくわからないまま親戚のおばちゃんに迎えられて「いらっしゃい、よく来たねえ~大きくなって。」と言われながら、広い応接間に通された。きちんと張り替えられた畳の応接間には座卓が並び、ふかふかの座布団もきれいに整列されていたのは覚えている。「なんか広い部屋だなあ」と思っていると、先ほど玄関で出迎えてくれたおばちゃんとその娘さんが台所から次々に昼ごはんを持ってくる。お刺身とか茶碗蒸しとか煮物とかフライとかがみるみると並び、あとは黄色いビール瓶のケースががしゃがしゃと音を立てて運び込まれてきたり、バヤリースのオレンジジュースの瓶がとんとんと置かれていったりした。何の時期にそこまで行ったのかの記憶もおぼろげだが、日本の風習に合わせるのならどうせお彼岸の時期だろう。
 

  
 ただ、それが何という町の名前かも覚えていなければ、県内のどの位置にあったのかも覚えていない。確かに水戸やひたちなか方面でなければ、取手や土浦ほど千葉県に近かったわけでもない。父親の計らいで帰り道につくば研究学園都市を経由した記憶はあるが、別段近所だったわけでもなかったはずだ。電車に乗っていればまだ駅名や路線名などの記憶は残るのかもしれないがそもそもそんな田舎町に電車は通っていない。車移動が前提だとしても、行く道帰る道で窓の外に何を見たのかさえも覚えていない。それから血縁についても、父方のどの親戚にあたるのかは何度聞いても覚えられない。確か父方の母親の親戚の家で……位の情報しかない。そもそも私は父方の親戚とはそこまで接点があったわけでもない。法事の時に顔を合わせるぐらいだ。正月に顔を見せに行った記憶もない。父方の両親はどちらも既に死別している。父方の祖父は17年前に亡くなっていて、その10年程前から入退院を繰り返し車いす生活になった。最後は老人ホームに入ったがそこで体調を急変して、搬送先の病院で息を引き取った。私が小学校5年生の時の秋の話だった。更に母親に於いては28年前の12月に亡くなっている。私は生後10日両親共に28歳の時の話だった。だから「皆が赤飯を持って葬式にやってくる」と言う矛盾の中で祖母の葬式が執り行なわれた事だったのだろう。因みに父親に兄弟はいない。一人っ子だ。だから私にとってのおじもおばもいなければいとこもいない。そんな私の父親に対してよく親族が言っていたのは「やっちゃん(私の父親) はねえ、若い時にお母さん亡くしてお父さんの面倒まで見て、それでもこうやって顔見せにきてくれるからねえ。本当にあんたのいいお父ちゃんだよ。」と言う事だろうか。しかしこれも誰が言っていたのかは覚えていない。覚えていないどころかそもそも自分でそう聞き取った記憶も怪しい。誰かがその言葉を通訳してくれたのかもしれない。何故かと言うと、「父方の茨城に住む親戚は特に何を言っているのか全然わからない」からだ。彼らのなまりは本当に強い。千葉と茨城は仮にも利根川またいでお隣の県ではあるものの、もう全く何を言っているのかが聞き取れない。父親の親族であるくせに父親自身も「茨城の言葉は何言ってるかわかんない」と言っている。更に最近になって茨城でも県南の人とか水戸の人とかに話を聞くと「同じ茨城でも北の人の言葉は何言ってるかわかんない」と言っている。そう考えると多分、結構北の方にあった町なのかなぁと推測は出来る。
 しかしまぁ、そんな茨城の北の方(推測) にある町に節目ごとに集まってくる親族の多さ。これが人の故郷と言う意味を示す「田舎」を表すのだろうか。座卓に広げられたグラスの数は15個ぐらい。大人たちは昼から宴会をしているが、正直私を含めて子供たちは一体どうしていいかよくわからない。周囲には私と私の妹以外にも子供はいるが、それがどこに住んでいる誰ちゃんなのかわからない。そっちもそっちで母親の元を離れなかったり兄弟同士で遊んでいる。都度父親や他の親族に血縁関係を説明されてもそんな事理解できるわけもない。多分学校の話とか流行っている漫画の話位はしたと思うが、具体的な内容は覚えていない。どんな年の子がいて、どんな顔の子がいたのかも覚えていない。ただ、身体に重い障害を持ってベッドのような車いすに乗っている男の子がいた。それは茨城に住んでいる親戚ではなく、確か東京の武蔵野とか小平とか西の方からきた親戚の子だった気がする。当時は東京に住んでいると聞けば「都会に住んでいるなあ」と思っていたものだ。その男の子は確か私と同い年だったかもう1つ上だったか。大体父方の親戚の集まりに行くとその子の姿を見て、その男の子の兄弟姉妹とは話をした。自分の兄弟がああいう障害を持っている事についてどう思っていたんだろうと気になったりしたが、そんなことは聞かずにただ漫画や学校の話をしていたと思う。また、私の祖父が亡くなった年には茨城ではなく別の場所で何度か法要があったわけだが、その時にも東京からきた親戚一家の姿を見かけた。私の通っていた小学校にも身体障害を抱えた子供たちが通う学級があったが、そんな学級にも通えない程の障害を持った子やその家族と話した経験はあれ以外に今もない。これから先あの男の子はどういう風に生きていくのだろうかなどと彼の姿を見る度に気になった。
 お昼12時前にここに着いたのに時刻は既に15時を回っている。昼間の宴会につかったお皿を片付け終わったおばちゃんたちが「お墓参りに行こう」と言う。お墓は家のすぐ真裏にあるわけだが、それは私の親族のうちの何処かの誰かが眠っている墓だが、誰が眠っているのかは知らない。腰が曲がりかけたおばちゃんは、同居している子供と東京から来た子と千葉から来た私達を連れて墓に案内した。墓の前で私はただ言われるがままお線香をあげて合掌した。おばちゃんは行き来の道中、畑の様子を気にしながら「ここでは何を育てている」とかなんとか教えてくれ、自分たちで作った野菜を食べて生活しているのだと言っていた。でも、私はそんな事よりも此処に来るまでにスーパーマーケットを見た記憶がなく、またあるような気配もしない。此処に住む人たちは一体どうやってそれ以外の生活雑貨を調達しているのかが気になって仕方なかった。後で父親にこっそり聞いたら「5km先にジャスコがあるんだってよ。」と答えてくれたが、私はその事がただ信じられなかった。やはりどうやって毎日生活をしているのか想像がつかなかった。いや、ジャスコなんて通ってきた覚えがない。それは私が車の中でずっと寝ていたからだろうか? いや、それにしても……。だからこんな場所に住むのは嫌だと思ったし、申し訳ないが今も住みたいとは決して思わない。何故ここに連れてこられたのかも頭では納得していても正直楽しいと思ったことはなかった。おばちゃんたちに何を言っているのか分からない言葉で話しかけられるのも何かイマイチしっくりこなくて、「周りに何もない田舎に来た」と言う感覚がどうも自分の中でうまく消化できないまま、秋の日曜日1日が悪戯に過ぎていっただけだった。
 

 
「じゃあそろそろ行くよ」
 そう母親に言われて身支度を始めると、おばちゃんたちがお彼岸だからとこしらえてくれた大きなおはぎと、それから家で取れたたくさんの野菜と、あと2000円ぐらいのお小遣いを持たせてくれた。父親が車のエンジンをかけ、「じゃあまたね~」と窓から顔を出して見送るおばちゃんたちに向かって言う。私もそれに倣って窓越しに外に向かって手を振り、母親は会釈をしている。「じゃあまたね~」と言って、私はそれ以来もう15年以上は茨城になんて行っていない。私だけではなく多分両親も行っていないのではなかろうか。そういえば最後に茨城に行ってから2年後ぐらいに、東京から来たあの障害を持った男の子は亡くなったと聞いて、父親だけはお線香をあげに行ったような気がする。
 茨城のその町もそこに住むおばちゃんたちも、15年の間に良くも悪くも変化をしたのだろう。きっと車がいっぱい走るようになって、郊外特有のショッピングモールや家電量販店の数も増えてきただろうか。また、まだあの畑で野菜を作ることは続いているのだろうか。まず、多分そこにいた親族の何人かは亡くなっているはずだ。そうね、跡継ぎはいるのだろうか。それほどおぼろげな「田舎」の記憶が、私にも存在している。もう一生のうち、あそこに行く事はきっとない。だからその変化を目の当たりにする事もきっとない。
 
 だからこそ、思い出しておきたい場所だった。だからこそ、そういう経験が自分にもあった事を記しておきたかった。だって私は首都圏から離れたくないし。この先、意見が変わって、どう思っているかは知らないけれども。でも、少なくても今はまだここ東京の片隅と、千葉県千葉市の「田舎」を往復する生活を送る所存でいる。だからこそ。ねえ。
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たかなしみるく。

「感情の墓場を、詩と呼ぼう。」: note( http://note.mu/001203mm )、深呼吸する言葉( http://d.hatena.ne.jp/xxmilk69xx )
得意技は モテない・拗らせ・考えすぎの三拍子 エッセイ。