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向かい風は南風。追い風はビル風。3 たかなしみるく。

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「たかなしさん、一生懸命書いてきてくれたのはわかるんだけれど、これだとちょっと長すぎるなあ……」
「はい……」
「ちゃんと出してくれてるしいいんだけどね、でも、これだとともしび載せる作文の時数超えちゃうから、もう一回書き直してきてもらえる?」
「……。わかりました。」
 

 
 1996年9月1日。世間でいうところ、2学期の始業式の日。
 担当教諭に言われた、一言。
 
 それから19年経つ今でも、その一言は私の柔く、然し1つ核であろう部分を、ちょっとずつ削いでいく。じりじりじわじわと、線香花火ほどの火の燃え方で、その柔い核の部分の内側から外側に向かって、焦がし落としていく。
 それは多かれ少なかれ、それでも必ず毎年、そんな感覚を思い出しては、心が少し削がれる気がする。じりじりじわじわと。それは、線香花火が燃え尽きた瞬間、しゅっと音を立て、砂利にぼろりとあっけなく落ちるように、しゅっと私の中の核が、砂利に落ちていく、ような感覚がする。
 

 
 なんといっても、その時、私が夏休みの課題として担当教諭に提出した作文は、合計で原稿用紙25枚だった。
 いや、27枚だったかもしれない。やはりそうじゃない、もしかしたら200字分を1ページとカウントしていたのかもしれないから、実際は13枚だったかもしれない。本当に25枚(~27枚) きっちり書いたとしたら10000字を超していたわけだし、たとえそれが半分であったとしても、5000字。いま27歳の私がWordを使って10000字書くことなんて全然続かないのに、況してや小学校3年生の私が、鉛筆書きで、家の向かいにあったイトーヨーカドウで買ってきた原稿用紙に1日で10000字書きつけるとは、なかなかのものではないだろうか。等と思ってしまう。(若しくは5000字だったかもしれないが、それにしても今の私には5000字でもハードルが高い) 内容に関しては、今思い返す限りでは正直大して面白くもなんともない。文章構成がうまいかと言えば、多分うまくない。校正がされていたかといえば、きっとそんなこともない。ただ、3泊4日の家族旅行の思い出を、最初から最後まで時系列通り書いていっただけだったと思う。そう言えば、担任教諭に提出する前に、自分の母親に「那須行った時のこと、25枚書いた。」と自慢げに告げたところ「そんなに書いても先生読むの大変だし、ちゃんと内容まとまってるの?」と言い返された記憶までぶり返してしまった。それもそれなりにじくりと焦がしていったのだけれども、提出した際に言われた一言が、さらに私の核の部分に追い討ちをかけるかのように、焦げた部分を更に削いで落としたのだったと記憶している。
 あの頃はこんな風に思っていなかっただろう。思ってよいものかもわからないだろう。でも、今ならあの頃の自分の気持ちをちゃんと言葉にできる。
 
 凄く悔しかった。それはきっと、楽しかった家族旅行の思い出だったから。
 確かに原稿用紙の枚数だけは多くって、内容なんて知れた作文だったかもしれないし、毎年市の教育委員会が発行する、文集に載せる作文の選定には困る原稿用紙の枚数だったかもしれない。ともしびに載せるのにこれじゃあ枚数が多すぎてほかの児童の作文との選定ができない、だから、書き直してほしいという担当教諭の主張も理解できる。
 
 でも、きっとそれを、それでもそれなりに、小学校3年生の私は一生懸命に書いた。
 そのことを知って欲しかった。8月のもう休みも終わる日の朝9時ごろから、大きな窓を全開にして、真っ直ぐに日差しが伸びて入る家のリビングテーブルの上で、私は那須旅行の思い出を書いていた。右手を鉛筆の跡でまっ黒にしながら、テーブルを消しゴムのカスまみれにしながら、ただただ書いていた。旅行の記憶を、その当時まだ4人家族、いや、4.5人家族で行った那須旅行の事を、原稿用紙に書き写していた。4.5人家族での旅行が楽しかったこと、それをそうやって記録にしておこうと鉛筆を握っていた私の事を、知ってほしかった。今も同じ思いで、今度はそれはあの日差しが真っ直ぐに当たる私の家のリビングではなく、東京都心の日当たりがなく、湿気じみた場所の中で、さらに古くキーボードが打ちにくいsurfaceを使って、記録をしているに過ぎない。
 確かに19年前の記憶を遡っていま、こうやって記録にすることは出来るし、この原稿が予定通り掲載されたとしたら、もっともっと沢山の方々に目を通していただけることは、少なくても間違いがない。間違いがないが、正直に申し上げて、事細かなことまではもう覚えていない。なぜならこの旅行に関していちばん印象に残っているのが、もう、27枚の作文の量が多すぎると言われたことだからだ。もう、旅行の記憶のほとんどを、その衝撃が占めている。
 しかしそれでも、わずか記憶している限りの事実を並べてみようと思う。
 

 
 確かそれは1996年の8月の23日ごろからだったか?
 私たちたかなし家は、当時4.5人家族で那須高原まで旅行に行った。4.5人家族、というのは、当時母親が第3女、つまり私の一番下の妹をお腹に抱えていたから、そう表現することにした。それが何故那須だったのかはよく覚えていないが(ファミリー向けの観光地であるのは間違いないだろうか) 8月の下旬に旅行の時期を合わせて旅行の時期を設定したのにはわけがある。そのころに、新しく契約した8人乗りのワゴン車が家にやってくるとのことだったから、だと記憶している。結局わが家への新車の納入時期はずれ込んで、9月の頭になるとのことだったので、店舗の方がお詫びにと、店舗所有の別の5人乗りの車を貸してくださった。その車はホンダのCR‐Vで、契約時に今もわが家で乗っている車と最後の最後まで悩んだ候補のうちの1つだった。結局それを選ばなかったのは、家族が増えることと、5人乗りの車では、祖父母を乗せて出かけることが出来ないことと、あとは私が8人乗りの3列車の広さに勝手にわくわくしていたからだった。
 旅行に出発する前日、父親が例のCR‐Vを借りて帰ってきた。3ナンバーの車だけに、車内の広さは納品予定の5ナンバーのワゴン車より広く、「やっぱりこっちのほうがよかったね。」などと父親が言った。私はそれに対して「それもそうだけど、これじゃじいじもあーちゃんも乗せてどっか行けないよ。」と応えた。確かその時にはすでに、翌月9月に、4.5人家族の我が家と、母方の祖父母と共に、千葉の房総半島に1泊2日の旅行に行く計画があった。うちが車を新調したことと、当月の頭に私が盲腸で入院したときに下りた保険金が予想以上に多かったからと言う理由で決めた旅行だったらしい。
 出発の日の朝、母親は、借り物の車を汚しちゃまずいからと言って、リビングで使っていたタオルケットを後部座席にひいて、更に私に対して「みーちゃん、車酔いしたら絶対に下に吐かないでね。ちゃんと袋に吐いてね。」と、数枚スーパーの袋を用意しておいた。当時私は車酔いがひどく、長距離の移動となると、どこかで必ず「気持ち悪い」と言って吐くような子供だった。高原に向かう車の中、私は父親が流すサザンオールスターズのアルバムを、上機嫌で聴いていた。「愛の言霊」が入っているあのアルバムで、とりわけ「愛の言霊」はドラマの主題歌だったことから学校でも流行っていて、何度もそればかりリピートしては、歌詞カードを見ながら歌っていた。当然車内で文字を追っかけている以上、うねる山道で何度か気持ち悪くはなったが、そのたびに窓を開けて、首を外に出してなんとか吐くのをこらえたか、もしくはまずそうな予兆がすれば、歌うことを諦めて、後部座席の後ろ側に丸まって眠る体制をとった。うねる道の途中、丸まっている私は座席から何度か落ちた。
 それでも記憶をしているのは車の中の事が結構精一杯かもしれない。そのほか何処に泊まったか、何を食べたのかということはあまりよく覚えていなくて、あとは牧場に行ったことは覚えている。牧場の名前は後で検索して思い出したが、南ヶ丘牧場という牧場だった。
 牧場の中での記憶も断片的にしかないが、まずその日の天気はあまり良くなくて、8月も下旬の、しかも平日の日の事だったので、さほど人酔い人疲れもしなかった。然し私は牧場に来たのにも関わらず、動物と触れ合った記憶もあまりない。私はアーチェリーの体験にのめり込んでいた。この旅行含め、小学校3年生のころには、合計2度か3度か旅先でアーチェリーをやった。初めは弓の構え方もわからなくて、重たい弓を肩で支えることもおぼつかなかったが、父親が何度かやり方を教えてくれて、弓を構えることができるようになってからは、楽しかった。運動は嫌いな私であったが、これは面白いと思えた。きちんとやればやるほど、上半身の筋肉は勿論、下半身で身体を固定していないと、狙いを定められないことが分かった。的の中心を狙って矢を射る基本の動きが出来るようになるまでは、そこまで時間がかからなかった。中心をちゃんと打ち抜けたわけでもないけれども、矢の当たる位置がだんだんと中心に近づくことで、父親が「みーちゃんなかなかやるなあ」と褒めてくれたことがやはりどうしても嬉しくて、それ以降は余計に黙々と的の中心を狙って矢を射る動作を繰り返した。アーチェリー場には私と父親と、途中からあと一組50代ほどの夫婦がいた。旦那さんが、アーチェリーに慣れているような雰囲気がして、ぱーんぱーんと綺麗に矢を打っていくのを、奥さんが「すごーい」と言いながら見ていた。父親がそれを横目で見ながら「すごいなあ」と感心をしていた。そんな父親の様子に気づいた私はいったん手を止めて父親が見ている方向を向く。そして私も「すごいねえ」と呟いた。
 アーチェリーをした後は、何故か家族でお昼ご飯にピロシキを食べた。ピロシキという名前を初めて耳にした私は「なにこれ? ピロシキ? どういう意味? 何入ってるの?」と両親に聞きまくった。そのあとにロバかうさぎに触れた事は覚えているが、そのあとの帰路にかけての車の中の記憶はない。もう疲れ切って眠っていたのかもしれない。そして最後の最後に思い出せるのは、父親と共に車を返却しに行った際に、店舗の方が「おかえりなさい、ご旅行はいかがでしたか?」と言って迎えてくれた事で、その時の私は、疲れが吹き飛んだような、非常に生き生きとした顔をして、「すっごい楽しかったです~!」なんて言って、旅行の思い出を、誰にも訊かれてもいないのにひとしきり答えた。今も昔も変わらず、いらぬことまでよくしゃべる子だった。これぐらいの事だろうか。
 

 
 そして、その翌日の朝からは、例の作文を書く作業に取り掛かった。旅行の日の朝起きた時のことから、思い出せる限りの事は、おそらくすべて書いた。書いて書いて書きまくった。小学生で作文を書くことが好きな子など、そうそうはいないはずで、私も出来るならば枚数など少なく、ぱっぱと書き終えることを望むタイプだった。そもそも今現在の私だって情景描写をこと細かく書き並べることが苦手で、大体ざっくりとしか人物の動きや、目にしている風景などを描くことができない。ただ、あの作文はそうではなかったはずだ。私が記憶している限りだと、あれだけ細かに、人物の動きを書き留めた、しかも、4.5人分の動きを書き書き留めた文章は、あれが最初で最後なのかもしれない。その作文をリライトするようにと担当教諭から指示を受けた私のショックは相当なもので、再提出した作文は原稿用紙2枚弱のもので、内容もものすごく薄くなった。もうこれ以上書く気力がおきなかったのだ。それを読んだ母親はあきれたように「こんだけしかないの? 20何枚最初書いてたのに、書き直した後の落差がひどいね!」と私に言った。もう核の一部分はなど、とっくのとうに姿を消してしまった。この時に、「私は作文書いてもうまくいかないんだな」と思った。書いてもきっと誰にも認められない。大げさすぎるし、そんな1度の体験で、うまい下手向き不向きを決定するのもばかばかしいかもしれない。だが、あの時の気持ちが、今の私の気持ちにも繋がっている。「どうせ書いてもうまくいかないけどね」という気持ちを、今でも小学校3年生の時に味わったままの温度で、繋がっている。今だって、思い出すたびに、心の中の自分の核と言うか、大事な部分がじくじくと焦げて落ちていく。勿論あの頃、25枚書いた作文に目を通したのは、母親と担当教諭だけで、そのほかの誰かに読んでもらったことはない。そして「どうせ書いてもうまくいかないけどね」と言う気持ちを私の中に残して、あの作文も何処かに消えてしまった。その当時の私が今、毎月1回、どこかの誰かのために、ものを書くことが来る日がやってくる事を想像などしただろうか。はたまた、想像こそしていても、それがどういう形で現実になる事を考えていたのだろうか。母親と担当教諭どころの騒ぎではない、それよりももっともっとたくさんの人に、自分の那須旅行の思い出について、読んでもらえる世界に、今私はいる。それを当時の自分に知らせたら、彼女はいったい何を言うか、何を思うだろうか。いや、多分、そんな未来19年後の話に期待も納得もしないんだと思う。小学校3年生当時の私に必要だったことは、そんな理想的に「未来の為に今を耐える」ような考え方ではなかった。ただただ、「いまの自分のがんばりを、いますぐに認めてほしい」それだけだった。19年後の話などどうだっていい。それよりも、今この瞬間に、27枚作文を書いたことを褒めて欲しかった。ただ、それが一番大切なことだった。だから、あの当時に私が感じた言葉にしきれなかった、歯がゆさと、削ぎ落ちていった心の核の一部分は、今がどうであろうと、もう二度と、帰ってこない。
 こないのだけれども。
 

 
 世の中、一生懸命だけあっても、きっと、ねえ?
 
なんて、いつも思ってしまうのだけれども。
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たかなしみるく。

「感情の墓場を、詩と呼ぼう。」: note( http://note.mu/001203mm )、深呼吸する言葉( http://d.hatena.ne.jp/xxmilk69xx )
得意技は モテない・拗らせ・考えすぎの三拍子 エッセイ。