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はつ花かぞえ 葛引すい子

2016_3-2

第十二回  睡蓮(すいれん)
 
 震災のことを、おはなししようと思います。
 
 最終回です。「めぐりあわせ」は「めぐみあわせ」なのだな、と思う、この一年の連載でした。『はつ花かぞえ』をはじめるまえに、なん月には、なんの花を、どういったかたちで語る、というすじかきは、十二の月たちすべて用意してありました。そのときから、この三月には、五年前の十一日のことをおはなししよう、と決めてあったのです。
 
 
 あの日のことは、よく覚えております。ちょうど、大学三年目の年度が終わりごろで、授業がぽつぽつと春休みに入りはじめていたときでした。関東の大学にいる妹も帰省しており、故郷の秋田には家族の全員がそろっていました。二時すぎの電車に乗って、私は当時かよっていた大学から家に戻ってくると、妹から、二階の倉庫の整理をしたから、確認してくれと呼ばれました。妹らしい几帳面さ(私とは違って)でかたづいた書架をながめていると、とつぜんあたりが、ゆらっと動きはじめたのです。
 
 気もちが悪いよこゆれが、ゆっくりと長くつづきました。本に潰されてはたいへん、と、妹とつれだって書庫を出ても、まだゆれはつづいていました。ゆらぅりゆらぅりと、いままでに味わったことのない、不気味なゆれかたでした。
 ……この地震はきっと、宮城沖で起きたものだ、数日まえにも大きくゆれたもの、なんて長い初期微動だろう、本震かと錯覚するくらい……むこうはどんなにか、すさまじいゆれにおそわれているだろう……。
 ゆれのなかで、そんなことを考えて青くなっていると、けたたましい警報が響いてきました。停電のしらせです。階下の診察室からは、患者さんの誘導をするあわただしい動きが感じられました。
 
 ゆれのなか、居住部分にもどってくると、父が丹精していた睡蓮の水盆が、うねるように水をあふれさせていました。そこに咲いていたのは熱帯の睡蓮でしたので、強力な電灯で太陽光が再現されてありました。この疑似太陽のとりあつかいについて、日ごろ父から厳しく言いふくめられていたほどのしろものでしたが、配線が水浸しになっています。これは、火事になる! 妹と、当時いた家政婦さんといっしょになって、しまつに取りかかりました。やがて、父も慌てながらやってきて、配線にかかりきりになりました。停電していたのが不幸中の幸いか、ショートだけはなさそうではありましたが、余熱や電球の不具合が心配でした。
――けっきょく、私の住んでいたところは震度5強でおさまり、だれもけがをしなかったばかりか、たてものに対する被害すらあらわれませんでした。まさしく覆水盆にかえらずの体なのに、そとは遅い雪がちらつくほどなのに、それでも鮮やかに咲いていたあの南国の花……。
 
 三月十一日の夜は寒かった。もうすぐ春なのに、季節を少しはずれた寒波が、北日本を襲来していたのです。この冷えで、海を漂う多くのかたが命を落としたと聞きます。
 秋田は停電こそしましたが、ガスや水道は生きていました。たらいのお湯で汗を流したあと、家じゅうの懐中電灯(父には懐中電灯を集める趣味があります)をともします。そのうちのひとつ、ラジオといっしょになったものから、情報を集めることとなりました。
――この夜ほど、怖かった夜はありませんでした。報道を聞くまでは、みぢかに大きな被害がなかったので、ほっと安心していたのです。しかし、ラジオから聞こえるアナウンサーの声で、この夜はほんとうにおそろしいものになったのです。
 
『……海岸には、数百体の遺体がうちあげられ……』
 
 このことばを、なんど聞いたでしょう。そのまえには地名が読みあげられるのですが、そのすべてに覚えがありました。なんとなれば、なじみ深い東北のことでしたし、それに、おととしの家族旅行で、太平洋の海岸をずっとめぐっていたのです。だから、やや小さい地名も、知っていました。ああ、あそこか……こんどは、あそこもか……。背筋がすっと冷えて、身が凍ります。停電のさなかでしたので、ラジオ、つまり音声でしか、そとのことは分かりません。ひたすら想像するだけです。
 被害状況をあらわすため、『壊滅』という単語も頻繁に出てきました。壊滅……NHKのアナウンサーが、たんたんと読みあげる原稿(つらいお仕事だったと思います)に、その苛烈なフレーズはいかにも不似合いでした。だからこそ、そのことばを使わざるをえなかったという事実が、なにより雄弁にのしかかってくるのでした。目のまえが暗くなります。でも、報道を聞かねばならぬ、と思いました。これほどの恐怖を、あれよりさきも、あれよりのちも、感じたことはありません。いつのまにか、声もなく涙が出てとまらなくなりました。この夜のことを、私は忘れることはできない、と、なかばあきらめのように思います。
 
 日が明けると、窓辺がぼんやりとあたたかくなりました。暖房がなくても、太陽でもぬくもりを感じるのか、自然ってすごいな、と、きのうのことがあったのに、屈託なく感じたことを覚えています。これほど長い停電ははじめてのことでした。母は自転車に乗って買い出しに行き、かなり時がたってから、電池をもとめる長蛇の列から帰還しました。どこそこではそろそろ、変電所が戻りそうだ、とか、そういうはなしももちかえってきたはずです。停電は二日で終わりました。(ただし、その後の余震でまた停電する)
 
 電気が復旧すると、安否をたずねたり、たずねられたりすることが、ちらほらとはじまりました。父の叔母たちは、釜石に住んでおります。だから、テレビで釜石の映像が出るたび、父はそのすがたを探していました。そして、避難者名簿が更新されるたびに、その名まえを探しました。父の勤務中は、私と妹が、その役にあたりました。しかしいっこうに見つかりません。そして、私が東北に住んでいることを知っている遠方のしりあいから、メールをつうじてだいじょうぶか、とたずねられました。おどろきながら、日本海側はほんとうになんにもない、と答えたものです。
 その後、大叔母のこどもたち経由して、釜石の親類はみな息災であることが確認されました。やがて、大学のほうからも、本学の学生で亡くなった者はいない、という通知が来ました。ですので、私はこの震災で、みぢかな被害を受けることはいっさいなかったのです。
 
 
 年度が明けると、大学がはじまります。震災のはなしばかりでした。東北の学校ですから、実家が被災地という友人が、かなりいることが分かりました。とくに福島の友人たちのことは、忘れられません。福島はその年、小学校教諭の採用を中止したのです。ここは小学校教諭の養成をメインとした学科でしたから、故郷の福島に帰って小学校の先生になる、と言っていた友人が、数人いました。みな、少しくたびれた顔をしながら、静かな無表情で「そうだね」と事態を受けいれていたのが、妙に印象的でした。
「それより、うち、避難区域なんだけど、おじいちゃん出てこなくて。みんなおいでって言ってるんだけど、ぜったい動かないんだよね」
 そのうち、ひとりの友人が語ったことです。おじいちゃんは、いまどうなったのか、かの女とはしばらく会っていないので、知ることはできません。その家に、いまはだれがいるのでしょう。
 そのころ大学は、震災で保護者をうしなった学生に対し、無利子の奨学金を公布すると発表しました。家や家族、知りあいをうしなった学生が、同じまなびやにいるのだ、布告からもつきつけられるようでした。
 
 春が過ぎ、夏が来て、やがてお盆になりました。この年の盆は、ただの通過儀礼ではありませんでした。例年にないほどの数の花火大会が催されましたが、それらはすべて送り火と迎え火なのでした。ものがなしさ、やるせなさが、切々とひとびとの胸によせ来る、そんな盂蘭盆でした。
 
 私たち家族は盆休みをつかって、釜石の親類のもとへと、お見舞いに行ってまいりました。妹は関東にいましたので、父、母、私の三人で。私が被災地に来るのは、これがはじめてのことでした。市内に入ってすぐは、高台ということもあって、あまり変わったところは見られなかったのですが、坂をくだって海のほうに向かうと、雰囲気がしだいに違ってきました。洗い流してはいるものの、いちど土砂でおおわれた道は泥っぽく、古くなった潮のにおいがきつくただよう……。やがて、建物のしたの部分が、そろってぶち抜かれた商店街に出ます。二階はふつうの家なのに、一階部分はうそみたいになにもない。柱にひっかかったビニールかなにかが、所在なげにたなびいています。もう、震災の爪あとは隠しようもなくなっていました。そこからさきへ行くと――なにもない。
 あるのは、砂原でした。でも、家の基礎だけがかろうじて見えかくれしている。釜石は、なんども津波の被害にあってきた場所です。その教訓をもとに、海の防災にはどこよりも力をいれていました。ビルほどの高さのある防波堤の偉容を、私は以前、目にしています。それでも、釜石は波をかぶったのでした。防ぐもののない風がびょうびょうと、苦しいくらいのいきおいで海から吹いていました。
 
 釜石には、震災のまえの秋に亡くなった父方の祖父の妹が、ふたり嫁いでいます。それぞれ、おしゃべりで明るいひとと、もの静かで優しいひとという、まったく対照的な男性と結婚しました。この二組の夫婦は、どちらも自宅に大きな被害はなく、周囲のひとを助けるくらいのよゆうはあった、とおっしゃっていました。
 ただ、自衛隊の電話が貸し出されたとき、列にならぶひとびとが、たくさんの訃報を伝えるなか、「こちらは息災です」と言うのは、ほんとうにもうしわけなかった、と、つらそうに思い出されていました。
 かれらのおはなしを聞いていて、知りあいが亡くなったことを、遅れて知るということは、独特のつらさをもたらす、と感じました。のちにだめだった、と伝えられるひとについて、そう聞くまでは「あのひとなら大丈夫」と願うように、言い聞かせるように思っていたのだそうです。
 
 そしてこのとき、おはなしした叔母のうち、年下のかたは、もういらっしゃいません。黙っていらしたのですが、このときすでに、進行した膵臓ガンが見つかっていたのだそうです。それから、ほどなくして亡くなられました。
 また、年長のほうの大叔母は、ふたりの息子を亡くしています。以前から、釜石の四人の大叔母・大叔父と会ってはいたのですが、こうして長いおはなしをしたのは、この被災見舞いがはじめてだったように思います。こちらの大叔父さんが、「××が生きていれば○〇歳、△△は□□歳」と亡くなった子どもの歳を数えられるのを、会話のはしばしで聞きました。それは、年号を数えるのと同じようなさりげなさと、頻度でしたが、やはり印象に残りました。
 たいへんに出来のいい息子さんたちだったそうで、いとこである父は「天才っているものだ」と、ことあるごと(トランプの神経衰弱ゲームをしても、かれらはほとんど一発で札を覚えてしまうので、とてもあいてできない、とか)知らされたと言います。お兄さんのほうは、脳炎で子ども帰りしたあとに亡くなり、その後すぐ、弟さんも病没されたとのことでした。どちらも、おとなの歳にはならなかったのだそうです。
 
 
 とくに、強い感情をまじえることをせず、震災にまつわる思い出だけを、記録するかのように書いてきました。私はいまだこの災害を、どのように消化するのか分からずにいるからです。
 どうしようもなくつらい思いをしたわけではない、けれど、まったくの他人ごとでもない……このことばを使うは少しためらわれるのですが、「死」の印象が、どこまでも濃いこの記憶を。
 この原稿を、私はゆえあって、故郷を遠く離れたウィーンで書いています。映画の好きな街のようです。そのポスターのひとつに、「FUKUSIMA」というタイトルがありました。震災、それも原発についての映画だな、と、すぐに分かる題名です。二〇一一年三月十一日のまえとそのあとでは、ことばの意味ひとつさえ違ってくるのです。
 
 覆水したあの睡蓮鉢ですが、震災をきっかけに父は栽培をやめました。
 睡蓮の有無が、私にとってもっとも卑近な、震災前後の違いです。

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葛引すい子(Kuzuhiki Suiko) @KuzuhikiSuiko

90年1月生。秋田出身、札幌市在住。文系大学院に所属する学生。
写真は妹(右側)と庭で。94年、初春。

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ひらのにこ(Hirano Nico)

心の奥底に眠るものを、揺らぐ心を、少女を通じて淡く柔く描いている。
2014より都内を中心に合同展に参加。
アジア創造美術展2015(国立新美術館)にて審査員特別賞受賞。
http://www.nicohirano.com/