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はつ花かぞえ 葛引すい子

2016_1

第十回  一月 松(まつ)
 
 明けましておめでとうございます。本年が、みなさまにとって幸多いものとなりますよう、心よりお祈り申しあげます。……お正月もだいぶ過ぎてしまいましたが、新年のごあいさつをいたしました。本年も、どうぞよろしくおつきあいいただけましたら幸いです。
 
 新年に欠かせない植物といいますと、松ですね。お正月は年神(としがみ) をむかえる行事ですが、そのための依り代(よりしろ) となるのが、松なのだそうです。玄関にちょこんとぶら下がる松かざり、またはとびらをはさむ立派な門松に、それぞれの神さまが降りてくるのですね。幾年(いくとせ) をへて神さびてゆく枝に、冬でも枯れぬ常葉(ときわ)をかかげて、しんと立つ松の木。たしかに神の御座所(おましどころ) にふさわしい。
 また、謡曲には「翁(おきな)」という、とくべつめでたい日のみに披露される、神事儀礼の舞曲があります。お正月こそ、一年でもっともめでたい日。ですから「翁」には、お正月の舞、というイメージがあります。残念ながら、私はじっさいに見たことがないのですが……。しかし、あのやさしくも神々しい白色尉(はくしきじょう)の翁面が新年を言祝(ことほ)ぐすがたは、きっと清しい晴れやかさに満ちていることでしょう。そして能舞台は、そのうしろ正面に松の古木を描くならいとなっております。老松(ろうしょう) と翁……なんと雅やかに年のふる。
 
 しかし、松とひとくちに言っても、その種類は膨大です。そのすがたがぱっと思い浮かぶのは、アカマツやクロマツなどでしょうか。これらの松は公園などで、よく目にしますね。北海道だとエゾマツも多い。また、「松」と呼ばれていても、ほんとうはモミの木のなかまだったりするものもあります。トドマツがそうですね。トドマツというと、山形は蔵王で見たアオモリトドマツのことを思い出します。正式名称はオオシラビソと言うそうですよ(シラビソは、モミの近縁です)。おおしらびそ、というちょっとふしぎな口ざわりの名の、その響きのよさが好ましいのですが、一般にはアオモリトドマツのほうで呼称されておりますね。
 アオモリトドマツ、それに蔵王ときて、ピンと来た方もいらっしゃるかと存じますが、かの山の群生は大規模な樹氷を作ることで有名です。むかし、見に行ったことがあるのですが、ロープウェイから山頂のあたりに降りたとたん、轟然(ごうぜん) と吹きつける山の雪嵐(ゆきあらし) にしっぽを巻いて、小屋のなかでぶるぶるしていた記憶があります。そういえば子どものころ、『八甲田山 死の彷徨』の「彷徨」を、「咆吼」とかんちがいしておりました。すさまじい吹雪は獣の声を思わせますから。……さて、そんなすさまじい吠え叫ぶ声も消え、さっと青く晴れわたった空のしたで樹氷の群れを見るのは、楽しいものでした。あんまり吹雪がすさまじいと、せっかくの樹氷も落ちてしまいますから、ほんとうは蔵王はそこまで風の強い山ではないのでしょう。ただ、思った以上の寒さにめんくらったことが、記憶を過剰にうわぬりしてしまったのかもしれません。
 さて……樹氷とは、ほんとうによい理科の教材です。水というものは、ゆっくり静かに冷却していくと、氷点をこえても液体のままに留まります。この現象を過冷却と呼びます。そして、ゆさぶったり、ぶつからせたりなど、なにがしかの刺激を与えると、水は思い出したようにいっせいに氷結していきます。樹氷は、冬山に湧いた濃い霧が、この過冷却の状態のままあたりをさまよい、樹にぶつかってはじめて氷となることでつくられます。それがどんどん重ねられていって、のっそりとした雪の巨人が生まれる。樹氷は風の吹きつけた側から大きくなっていくので、巨人たちはすべて同じ方向をむいています。つまり樹氷とは、濃霧が定期的に湧き、かつつねに氷点をしたまわる亜高山のなかでも、葉の密な常緑樹が群生しているところでしかできないのです。アオモリトドマツには、わさわさとした緑の常葉(ときわ) がいっぱいに繁っています。蔵王は、これらの条件をすべて満たした、まこと希有な土地なのでした。ふむふむ。中学校の理科みたいなおはなしをしてしまいました。数学はおおむね苦手でしたが、理科はとても好きなのです。
 冷たく晴れわたったお山のなか、自然のいたずらで産み出された雪の立像たちは、いまにも動き出しそうな風情で群れをなしておりました。彼らがもしも声を出したなら、ずもももも、とでもいうような、獣の咆吼よりもずっとひょうきんな谺(こだま) を響かせることでしょう。
 でもきっと、夜に樹氷を見たならば、それは恐ろしかったに違いありません。こちらの背丈のなん倍もあるアオモリトドマツを支柱に白く凝(こご) った、無数の巨体が一様に同じ方向を見ている。そのさきからは風が来る……夜をとおって風が来る。そうして霧が凍っていく。そんななかでは、孤独がどんなに身に沁みるでしょう。
 
 
 ふだんはひとりでいても、そんなに孤独を感じることはありませんが、帰省をせずに迎えた新年は、まさしく深々(しんしん) としたものでした。去年、二〇一五年のことですね。あの年は松の内に、学位請求論文を提出せねばなりませんでした。論文の執筆に、ひどく切羽つまっていたというわけではないですが、ていねいに作業をしたかったので、年末年始を大学で過ごすことにしたのです。そうして、冬休み中の施設利用の許可をいただき、申請したスケジュールに沿って、毎日ずっと、大学にかようこととなりました。構内はもちろんのこと、ふしぎなことに往来やアパートも、ひとかげをぐっと減らしておりました。
 いまごろ、実家ではおそばを食べているかしらん、お雑煮やおせちを食べているかしらん……みんな、年越しや新年のあいさつをしているかしらん。わが家のお正月は、なかなかに華やかなものでしたので、静まりかえった研究室との差がきわだちました。そのなかで、平日と変わらぬ作業を黙々と続けます。こんな年始ははじめてでした。ですがこの新年を、私は慕わしく思い出します。もちろん、平年どおりのお正月も大好きなのですが。いっさいが粛々として、無言のうちに充実していたあの日々の、妙な居心地のよさ。雪を踏む自分の足音さえ、おのれとの対話のように聞こえるほどの、静けさ。
 その状況はもしかしたら、孤独と呼べたかもしれません。しかし、孤立ではないと思いました。私は、好きな大学に進むこと、そのうえ、ひとより長くそこに残ることを許してもらいました。またそのなかで、驚きに満ちた、まったく新しい日々を送ることができました。すべて、まわりのひとに支えられてのことなのだ、としみじみと思います。私が感謝とともに思い浮かべるひとの多くは、自分の脚ですっきりと立ち、前を向くことを止めない強さをおもちでした。きっと、ひとしれぬ悩みを抱えることもあったでしょう。それでも、ほかのひとに甘えることはせず、しかし、ほかのひとをはねつけることもなく。ときには強い雪風(ゆきかぜ)の吹くなかも、緑の葉を散らすことなく、長いあいだ立ちつづける松の木のように。そのすがたを讃歎の思いで見つめた方のなかには、私よりもずっと古い樹の方もいましたし、若い方もいました。もう、お会いできない方もいます。
 節目節目に、かのひとびとのことを思い出します。たとえば、新年。そうすることで、つい日ごろの惰性に甘えていた目が覚めて、思いも改まるのです。私もいつか、私なりの松ぼっくり、そのなかにずっしりとした油脂をたくわえた松の実を、地に落とさねばならないなあ、そうしなければ、申しわけが立たないなあ……と、先人の落とした松の実をかじりながら思います。ひとりで夜に立つ恐怖をこえたさき、かえって自分はひとりではないことに、はじめて気がつくのかもしれません。

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葛引すい子(Kuzuhiki Suiko) @KuzuhikiSuiko

90年1月生。秋田出身、札幌市在住。文系大学院に所属する学生。
写真は妹(右側)と庭で。94年、初春。

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ひらのにこ(Hirano Nico)

心の奥底に眠るものを、揺らぐ心を、少女を通じて淡く柔く描いている。
2014より都内を中心に合同展に参加。
アジア創造美術展2015(国立新美術館)にて審査員特別賞受賞。
http://www.nicohirano.com/