F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

はつ花かぞえ 葛引すい子

2015_12

第九回  十二月 七竈(ななかまど)
 
 すっかり冷えこんできました。毎月二十三日に公開されるこの「はつ花かぞえ」を、私はだいたいその月のはじめに書いております。コンピュータのカレンダーは、十二月六日をさしていますね。いきなりなにを舞台裏のはなしを、とお思いになられたかもしれませんが、おそらく今日が、この冬いちばんの冷えこみなのではないかな、と感じたからです。しかし、「この冬いちばんの冷えこみ」は、季節が深まれば深まるほど、随時、更新されていくものです。札幌だと、その底は氷点下の十度ちょっと過ぎ、くらいになりますか。二月ころに底をうって、そこからは寒さも弱まり、春の予感に胸もどきどきしてゆきます。ですが、いまは十二月。気温は真冬にむかって滑るようにさがる。
 今日は日中でも氷点下のようです。真冬日かしらん。道のすべてがガラスめいた氷でおおわれ、路肩にはすこし古くなった雪がまんじりとしている。そのなかを歩いていると、ほうぼうに散る冷たいガラスが、遠目で見ると青みがかかっているような、ふしぎな色合いを放っているのに気がつきました。ですが、近づいてみると、その色は失われてしまいます。はてな、と思ったのですが、どうやら空の青を反射しているらしいのです。日本海に面する私の故郷は、雪と氷はめずらしいものではありませんでしたが、青空には縁遠い場所でした。しかし札幌は、冬でもよく晴れます(太平洋のそばで生まれた方々は、陽ざしが少ないとおっしゃいますが……。主観とはおもしろいものですね)。今日の冷えこみも、空があんまり清々しいものだから、放射冷却がおこったのでしょう。大気がきんきんと凍えるなか、水も凝(こご) って空を映す鏡になったのでした。氷の大きいところでは、道ゆくひとびとの影があざやかに結ばれています。光あふれる冬のおもしろさ。ですがいま、窓の外を見ると、早くも薄藍色の夜が降りているのでした。時計は午後四時をさしています。
 
 さて、こんなふうに一年の半分ちかくは(場所によってはそれ以上) 雪にとざされる北海道ですが、それゆえにナナカマドが街路樹としてとても好まれているのです。今日も、ナナカマドのまっ赤な実を、青空ガラスの道みちで見ました。雪のやむことのない厳冬に、色を失うことのない唯一の実。雪ぼうしを頭に載せて、身を凍らせながら、それでもつやつやしい赤をたもつこの樹の実には、讃歎の声さえあげたくなります。ナナカマドの名の由来は、その枝を七度、かまどにくべても燃えつきることがないことからだ、とむかし教えてもらいました。幹が強ければ、実も強いのですね。そのあざやかな生命力に、北海道のひとは冬のなぐさめを見いだすのかもしれません。
 そしておそらく、実が冬まで残っているというのはきっと、まずいからに違いありません(食べたことはないので、たいへんな決めつけですが)。鳥たちも、ほかに食べるものがあるときは、ナナカマドに手を出しません。しかし、真冬のころになると、どうもしぶしぶ……といった風情でこの実を食べはじめるのです。苦いのでしょうか、酸(す)いのでしょうか。手の届くところに街路樹の実はなっておりますが、さすがにひとの身では食べてみようとは思いません。でもおそらく、北海道の市街に住む小鳥の多くは、ナナカマドによって命を支えられているのでしょう。
 ナナカマドは、夏のころに白くこぼれるような花を咲かせます。バラ科の樹らしく、素朴ながらに愛らしい花なのですが、それよりもあの赤い実のほうが、ずっと目を引くのです。おそらく、ナナカマドの花の印象を聞いても、多くのひとは思い出せないのではないでしょうか。でも実のことなら、きっとみんな覚えています。たとえ、ナナカマドという名を知らなくとも。秋、赤く染まる葉もみごとですが、やはり実の記憶が勝ります。ほかの自然物が、はっきりとした色彩を産みだすことのない冬にひとつだけ、作りものよりもすばらしい赤。
 
 冬のナナカマドには、小鳥が鈴なりに群れています。頭のうえでぴちぴちとしゃべり声がするな、と思うと、ああこれはナナカマドだったのか、と分かります。どうやら珍しい野鳥もやって来るそうで、とくに冬場に鳥好きとなる父(いきもの全般が好きですが、冬になると、鳥以外の多くのものがすがたを消してしまうので)から、これこれの鳥がいたら伝えてくれ、と託(ことず)かっているのですが、札幌の中心地にはさすがにいないようです。もしかしたら、見つける目ができていないから、気づかないだけかもしれませんが……冬は転ぶのが怖いので、おもに下を見て歩いているし……ぶつぶつ。動物なり、植物なり、それを見ることに慣れていないと、目に入っていても気づかないものです。
 冬の鳥。鳥こそ、冬のいきもののように感じます。荒れる冬の日本海には、ウミネコやカモメのすさまじい鳴き声がよく合います。もう少し穏やかに、大きな池をもつ公園には白鳥の群れ……シベリアからのお客さま。白鳥の古名である「鵠(くぐい)」は、その鳴き声からきているといいます。隊を組んで、こうこうと鳴き交わして空を往(い)く。そのすがた、その声を聞くと、しみじみと冬の訪れを思います。
 
 大陸から渡ってくる鳥は、白鳥のほかにも無数にいます。たとえば、勇壮な鷲鷹類(わしたかるい)。なかでもとりわけ、私はチュウヒ(漢字では「沢のノスリ」とあてて、「沢鵟」と書きます)がいっとう好きでした。
 くわしく言うと、ハイイロチュウヒという種類なのですが、どうもこれはめったに日本には渡来しない鳥のようです。ですが故郷には、日本で二番目に大きな湖を干拓してできた、広大な葦の原がありましたので、ごく珍しい冬鳥が、ぜいたくにもひしめきあっていたのです。ハイイロチュウヒもそのひとつでした。完全に野原が雪におおわれる少しまえ、十二月の初旬ころ。野原の上で、くるくると旋回する青い影。それが、野ねずみを見つけてグン、と降りてくる。一瞬ののちに力強い脚で獲物を捕らえ、風を裂くように空に戻っていく。その精悍なふるまいと、青ざめた灰色のつばさがなんとも見事で、ほかのどんなに立派な鷲鷹よりも、チュウヒがいちばんうつくしく見えたのでした。
 うつくしい渡り鳥……鷲鷹にかぎらなければ、おそらく白雁(ハクガン) がその頂点に立ちましょう。白鳥というのは、田んぼで休むすがたが大きいアヒルのようで、名が知れているわりにはおもむきに欠けるところがあります。それに対して白雁は、ひじょうにまれにしか見られない鳥ですから、神秘のヴェールを脱ぐことがありません。ひとを寄せつけることをせず、風の揺れにもぱっと飛び立つ。その羽は、白鳥のヴァニラ色よりもすっきりと、雪のような真白(ましろ) をしています。冷たいくらいに冴え冴えとしたつばさは、初列風切り羽だけがすっきりと黒い。まこと、潔いほどの風貌です。群れで飛び立つかれらのすがたは、輝ける紙の吹雪を、空にさあっと刷くようで。その吹雪は、みるみるうちに小さく去っていくのですが、羽ばたきにあわせて波のように煌めくその白は、遠くからでも目を射貫きます。そのあざやかさはまるで、蒔絵の細工物など、古い時代の工藝を思わせる節があります。ひと片(ひら) の白さえ見えなくなるまで、ずっと目で追いかけてしまいます……そして、夢でも見たのかなあ、と思う。それが白雁。
 
 いま、私は故郷を離れておりますので、冬鳥の勇壮で幽玄な飛来を見ることはそうそうありません。そのかわり、街路のナナカマドで、ツグミやヒヨドリ、スズメなど、なじみの小鳥たちがチッチと鳴いているのをよく見ます。ちょっと羽をばたつかせて、赤い実をくちばしでつついては、姿勢をもどして知らん顔。でもそのほおや口のなかには、赤い実がころころくわえられているのです。ちょっと、もぐもぐなぞしていることもある。その普遍的な愛らしさも、なかなかおろそかにはできません。
 寒さをふせぐために、ふっくりと胸の羽毛を立てたスズメを、「脹雀(ふくらすずめ)」と呼び、「福良雀」と字を当てた、むかしのひとのやさしいまなざし。日本髪や帯の結び方にも、「ふくら雀」と呼ばれるものがありますが、あれらは少女向きのものだそうです。冬の雀は愛らしいですものね。
 小さくとも、冬をたくましく生きる小鳥たちの、命のともしびであるナナカマドは、雪国にあかあかと燃えさかるのでした。やがてやってくる新(あらた)しき年は、ナナカマドと雪の紅白で彩られるのです。どうぞみなさまも、よいお年を。来年も、お会いできれば嬉しく思います。
 
(あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと)

suiko

葛引すい子(Kuzuhiki Suiko) @KuzuhikiSuiko

90年1月生。秋田出身、札幌市在住。文系大学院に所属する学生。
写真は妹(右側)と庭で。94年、初春。

nicohirano_icon

ひらのにこ(Hirano Nico)

心の奥底に眠るものを、揺らぐ心を、少女を通じて淡く柔く描いている。
2014より都内を中心に合同展に参加。
アジア創造美術展2015(国立新美術館)にて審査員特別賞受賞。
http://www.nicohirano.com/