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はつ花かぞえ 葛引すい子

2015_1101

第八回  十一月 六花(りっか)
 
 六花(りっか)。むっつの花びらをもつ、白い花……雪の異称です。今年の四月から、月ごとにひとつひとつ、草花によせたつれづれをお話してきましたが、とうとう冬をむかえることとなりました。冬の花とはなんだろう、とすこし考えたときに、この「六花」ということばが浮かんだのです。
 たとえば東京などでは、真冬でも花が咲きますね。高校生のころ、一月の東京をおとずれたことがあるのですが、緑のつやつやしさ、ほころぶ花々に、たいへん驚いたのをよく覚えております。ですが、故郷である秋田や、いま住まいしている札幌では、冬になると花も緑もみつけられなくなるのです(常緑樹もたしかにあるのですが、雪に隠れてしまうのです)。そのかわり一面の雪景色が、とこしえとも思える長いあいだ、のったりと広がります。
 札幌では十月のすえに、はつ雪が降ります。十一月は雨と雪とを交互にくりかえしながら、やがて雪しか降らぬ日々をむかえます。十二月のなかばには、「根雪」と呼ばれる、春までとけない積雪で、地面のすべてがおおわれます。じつは子どものころ、日本のすべての地域に、根雪があるのだと思っていました。そのくらい、私にとり、冬と雪はきりはなせない存在なのでした。
 
 はつ雪のころまでは、ここでも秋の花が咲いています。ですが、いちどでも雪にふれてしまうと、繊細な花弁は寒さにあてられて、すぐにしおれてしまいます。そうして、十一月にはすべての植物が、その内にめぐる水の流れをひそめ、身を細らせ、沈黙していきます。雪のふとんのもとで睡る準備を。
 私は北の人間としてはめずらしく、雪をたいへん好いております。北国のおとなは、たいてい雪をいといます。お外に出るのがおっくうになりますし(けがや事故がつきものです)、雪よせには力がいりますし(降ればまたやりなおし)……それにまた雪は、なによりも確実にひとの命をもっていきます。私もすこし、愛憎なかばするところはあるにはあるのですが、こどものころと変わらず、強い親愛の情を雪によせております。
 
 吐く息が濃く白くなるころ、みぞれもすがたを見せなくなるころ。そうした、厳冬のあいだに降る雪は、まさしくうつくしい六花のかたちをしているのです。コートなどの、濃い色の布のうえに落ちる白い雪を、じっとひとつひとつ見てみてください。細く延びるつのつの、その中心で編まれる見事なレースもよう。どれもすばらしい繊細さです。できうることならば、すべてをそのままにしておきたい、そのすべてを目におさめたい。そう思いながら、息がかかって溶けてしまうのを怖れるのです……それでもするすると、六花は水へとほどけてゆきます。そして、いま踏もうとしている足もと、高く遠い屋根のあたり、うち捨てられたゴミの上にも、六花は贅沢にも降りしきるのです。
 
 雪は、まこと贅沢なおもちゃです。こどものころは、学校からの帰り道は、みんなで雪合戦をしながら歩いたものでした。ランドセルは雪玉から身を守る、まこと優秀な楯に、コートは鎧(よろい) にかわります。毛糸のてぶくろは水と氷でべしょべしょになって、手はしもやけでまっ赤になります。お風呂にはいると、しもやけの手足がどうしようもなくかゆくてかゆくて、せつなくなるのです(秋田では、身体的なしんどさを「せつない」ということばであらわします)。それでもあきることなく、毎日、毎日、雪遊び。
 女の子どうしであつまると、小さな雪だるまをたくさん作って、コンクリートの塀のうえにちょこちょこ並べたりしました。あとは、やんちゃなメンツでつらら取りとか。これは、屋根からの落雪や、折れたつららで死んでしまうことがあるので、おとなからは厳格にいましめられておりました。とにかく、こどもは雪が好きですね。いまとなっては、なぜそんなことを……とぐったりするのですが、雪国のこどもで新雪を食べたことのない者は、いないのではないでしょうか。
 
 そのなかでも、雪の上に落書きをするのは、とても楽しいことでした。公園や、日中は車の出入りのないアパートの駐車場などで、それはおこなわれます。積もった雪の上で、足や棒をつかって絵や文字を書いていくのです。ビンゴゲームをすることもありました。そうしながら、ときどき雪の上を転がったり、乱入してくるソリに乗せてもらったり……しだいに体がほかほかしてきて、じーんと疲れが沁みてきます。そのうえ、やんでいた雪がまた降ってきたりするのです。そんなときには、その場で転がったり、家の中に戻ったりして、降る雪を下からじっと見つめます。するとなぜか、雪が降りてくるのではなく、自分が空へと昇っていくような錯覚におそわれます。こどものころの私は、この妙な浮遊感が大好きでした。そしてそれは、静かに黙っていなければ味わえないものでした。
 それは、北国にしては暖かな秋田の、その海沿いに降る雪でした。水分をたっぷりふくんで重く、ぼたん雪と呼ばれる雪でした。故郷では冬のあいだ、日が差すことはほどんどありません。空は厚い雲に、地面は深い雪におおわれて、灰白色の世界が数ヶ月つづきます。夜になると、町明かりを雲と雪とが反射して、みなもとのさだまらぬ、ぼんやりとした乳色(ちちいろ) の光があたりをたゆたうのでした。
 
 雪遊びをそれほどしなくなったころ、つまりは高校生のころ、雪をつくる実験を、部活動の一環でしたことがあります。おそらく、世界ではじめて人工雪をつくった中谷宇吉郎先生の実験を、ごくチープなかたちで再現したのだと思います。その結果、あの六花が、ちょっと素朴でいびつなものではありましたが、たしかにひとの手でつくり出すことができたのでした。これはとてもおもしろい経験でしたが、気がつけばいま、中谷先生ゆかりの場所で日々を過ごしているのです。私がここで学んでいることは、雪とはまったく関係がないものではありますが。
 中谷先生は、文筆にもたいへん優れた方だったとききます。このWeb版片隅でも、中谷先生の『雪』を山田宗太郎さんが紹介されています。この紹介を読んで、これは本に呼ばれている! と思い、『雪』を買わねばと、大学の書籍部で手に入れたのでした。すこし宣伝のようになってしまって恐縮ですが、片隅に「雪」にまつわる記事があることを、嬉しく思うのです。
 
 
 札幌の雪は、また違った風合いをしております。パウダースノーと呼ばれるそれは、どこまでもこまかく、かさかさに乾いて吹きつけます。道ゆくひとはみな、粉砂糖をかけられたような風情で、猫背になりながらサクサクと歩きます。秋田の雪は、にぎればすぐ玉になりましたが、こちらのそれは砂のように手の中から流れます。空はときおり、つきぬけて黒い夜、冴えた星月を見せてくれます。気温はときにマイナス十度を下まわり、雪はいっそう乾いてゆきます。おしなべて雪と名を受けるものとて、それらがすべて等しいわけではないのでした。六花は、同じかたちのものは二度とできぬと聞きます。そのすべてを、ちゃんと鑑賞できぬことを、なんとなくもったいないように思います。雪は、秋田のものも札幌のものも、やっぱりとてもきれいなのです。
 
 積もった雪の上、宵(といっても、日が落ちるのがとても早いので、あたりはすっかり真っ暗です) の原生林をキタキツネが走り抜けていきます。そのあとを、大学帰りの私がとくに雪合戦などもせず歩いて行きます。乾いた風が吹いて、木々に積もった雪がさあっと滑って、そばを走る小川のなかに消えてゆきます。そのいくばくかを受けて、私は粉砂糖まみれになるのですが、枝から落ちた雪の……たなびく紗のような一瞬のすがたが、なんだかとてもうつくしくて、たまらない気もちになるのです。
 雪国に住みながら、雪遊びをする歳をこえてもなお雪が好きならば、きっと一生、雪が好きでいられるんでしょう。自然のもたらす現象はどれも、かろやかに人間を無視し、それでいながらひとの詩情をくすぐるものですが、雪こそ、その最たるものだと思うのです。

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葛引すい子(Kuzuhiki Suiko) @KuzuhikiSuiko

90年1月生。秋田出身、札幌市在住。文系大学院に所属する学生。
写真は妹(右側)と庭で。94年、初春。

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ひらのにこ(Hirano Nico)

心の奥底に眠るものを、揺らぐ心を、少女を通じて淡く柔く描いている。
2014より都内を中心に合同展に参加。
アジア創造美術展2015(国立新美術館)にて審査員特別賞受賞。
http://www.nicohirano.com/