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はつ花かぞえ 葛引すい子

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第二回
五月 勿忘草(わすれなぐさ)

 草花について思いをはせると、背たけがちいさく、地面が今よりもずっと近しいものであったころの記憶にゆきあたります。
 そんな幼いころの記憶には、あまたのひとが住んでいます。彼らについて語ろうとすると、たくさんのことが思い出されて已みませんが、今回は、父方の祖母のことをお話しようと思います。祖母といっしょに、わすれな草を摘んだ五月のことを。
 
 私たち一家はずっと、母の実家に住んでいたので、父方の祖父母とは年に二回ほどしか会うことがありませんでした。春、私たちが彼らの家に遊びに行くとき。秋、彼らが私たちの顔を見に来てくれるとき。その二回です。
 祖母はごく小柄なひとでした。そして、ごく華奢なひとでした。私も当時、ひとなみよりちいさなこどもでしたが、玄関にならぶおとなの靴の中で、彼女のものがいっとうこぶりで、ともすればこどもの靴にさえ見えました。
 祖母はとても明るいひとでした。そして、ひじょうに優しいひとでした。なにかにつけぷりぷりと怒っている姿を見ましたが、ひとに対して怒るようなことはあまりなかったように思います。みんみんぜみの鳴き声の、あの最後の間延びがひとをばかにしているみたいではらが悪い、とか、そういったたぐいの明るく軽い怒りで、それは紙吹雪のようにさっと過ぎ去ってはまた現れ、やはりすぐに散っていくのでした。
 年に一度のお泊まりにゆくと、ちいさくて細い体をちゃきちゃきと動かして、手のかかる甘ったれだった私たち姉妹の世話を熱心に焼いてくれました。とくに、私たちの食が細いことを、ひどく気にしていた姿を、強く覚えています。
 
 祖父母の家に行ったときはかならず、庭の花を摘ませてもらいました。祖母がそばについていてくれて、日ごろ手ずから丹精したのであろう花々を、そうと知らぬ孫たちがぷちぷちともいでいくのを、とがめもせず、むしろこれは欲しくないか、それともあれがいいか、などいいながら、一緒になって遊んでくれました。
 私たちがいちばん好んで摘んだ花は、青いわすれな草でした。この花は、庭のなかでもひときわ乾いたところ、足もと低くに群れをなして咲きます。その美しい瑠璃色は、あたりのなにものにも紛れることのない、独特の鮮やかさをもっています。風が吹き、かすかに土ぼこり立つなかで、わすれな草の花はいっせいに、青むらさきの霞(かすみ)がたなびくように揺れるのでした。祖母が亡くなった日の朝に見た夢も、どうやらこの霧がかかっていたようでした。……うす青をした霧の向こうで、祖母が静かに笑っています。ですが、話すことはできません。夢の中で私は祖母に向かって、届かない声をいつまでもかけていました。うそのような話ですが、この夢から覚めたときに、祖母の死を聞かされたのです。きっと、まわりのおとなたちの会話を、眠りのふちで拾ったのでしょう。それが、夢に移ったのでしょう。祖母が亡くなってから、あの庭で花を摘むことは、いちどもありませんでした。だからこそ、わすれな草の思い出は遠く、懐かしい。
 
 曇りがちの故郷とは違う、盛岡(こずかた)の明るく高い空、いつ行っても冴え冴えと澄んだその空の下で見る祖母の顔は、いつもふしぎな印象を私たちに与えました。ですが、その理由はよく分かりませんでした。のちに、父から聞いてやっと分かったのですが、その妙なふしぎさは、祖母の目の色によるものなのだと知りました。
 祖母は、私の親族すべてがそうであるように、生粋の東北のひとです。長いこと北の国で続いてきた血のなかには、ときどき赤い髪や緑の目をもつひとが生まれます。彼女がそうでした。父も、幼いころは赤毛だったのだと言います。
 祖母の顔に感じたふしぎさ……それはけっして不快なものではありませんでした。ただ、どれほどいっしんに見つめていても、紐解くことのできない謎がそこにはあるような気がしました。それは、東北のひとらしい、はっきりとした顔立ちによる作用もあったのでしょうが、なによりもやはり、光のかげんでゆるゆると色を変える、あの色うすい目に宿るものだったのだと思います。
 祖母の目は、家のなかで見るときは澄んだ茶色をしておりましたが、陽光がそこに差しこんだとたんに、それは緑を溶かしたヘーゼルへと変化しました。その変化が、きっと幼いころの私にはふしぎなものに見えたのでしょう。あのころ、彼女の目を飽くことなく見つめていましたが、それでいながら、このふしぎさのみなもとが、虹彩の色にあることにすら気づいておりませんでした。
 
 摘んできた花を手に、家屋のうちへと戻ると、こたつ(五月でも盛岡は寒いのです) にあたる祖父と両親が迎えてくれました。屋根の陰に隠れて、祖母の目はうすい茶に戻ります。そして私は、花を生けたコップをまえに、父にいつもの昔話をねだるのでした。わすれな草にまつわる、ドイツの民話を。私はこの話が好きで、わすれな草を目にするとかならず、この話をしてくれるよう、父にせがみました。たぶん、父にとっても、お気に入りの話であったのだろうと思います。
 ……ドナウ川のほとりを、少年と少女がつれだって歩いています。崖のふちに咲いているひと群れの可憐な花を、少女は見つけました。彼女は少年に、その花を摘んでくれるよう頼みます。少年はそれをうべない、花を採りにゆきます。しかし、とちゅうで足を滑らせ、彼の体は早瀬に飲みこまれました。もやは助かる望みのないことを悟った少年は、あわてて川べりに駆けよる少女に向け、ひとつの言葉とともに花を投げ贈りました。「私を忘れないで!」それが最後の言葉となり、彼の体がドナウの流れから浮かぶことは、二度とありませんでした。少年の墓は、崖のふちに建てられました。そしてそこには、彼が遺したあの花が、いつも供えられているのでした。
 Vergiss mein nicht…! 我ヲ忘ルルコト勿(ナカ)レ! 少年の遺した花は、ともに遺さたその言葉で、呼ばれるようになりました。それは今でも変わりません。ドイツだけではなく、ヨーロッパでも日本でも。すなわち、Forget me not、そして勿忘草(わすれなぐさ)、と……。
 私はこの話を聞いたとき、この二人づれを、純朴な少年と、ちょっとませた少女という、牧歌的なイマージュで思い描いていたのですが、ほんとうは騎士と乙女のお話なのだそうです。騎士物語というと、貴婦人や乙女のために、若い騎士が命を捧げるのは定石ですから、この民話もその流れをくむものなのでしょう。ですがやっぱり、私の印象に宿る彼らの姿は、まだ幼さを残した、恋人でも友人でもない、あいまいではかないものなのです。この話をきくと、幼いころの私は、少年亡きあと少女は、どれほどの悲しみと後悔にくれたろうと、物語のつづきに思いをはせるのでした。花を供えたのは、あの少女だろう……いつかは少女もおとなになるだろうか、やがて幸せになれただろうか。でも、どんな人生をたどろうと、少年の思い出は、いつまでも残りつづけただろう……わすれな草は、今でも咲いているのだし……。
 少女は、少年が死んでしまうことを知っていたなら、花が欲しいとはぜったいに言わなかったでしょう。しかし、なんの気もない無邪気なふるまいが、思いがけず長い後悔の尾を曳く、ということは、おうおうにしてあることです。私もできれば、祖母の生きているうちに、健やかに食事をする姿を見せてあげればよかった、とつくづく思います。
 
 私が乳飲み子だったころ、妹の出産などで忙しくなった母に代わって、祖母がめんどうをみてくれていたのだそうです。そのことを、私はまったく覚えていなかったのですが、いくつかの写真が残っています。
 当時、私たちは東京に住んでいました。あの体の弱い祖母が(とくに、ひとごみを苦手としていました) はるばる上京し、しかもしばらく住んでいたことを知ったとき、私はたいへん驚きました。しかし赤んぼうの私は、祖母の手からミルクをほとんど飲みませんでした。今まで母乳だったものが、粉ミルクになったせいでしょう。彼女のせいではないのですが、しかし祖母はこのことをひどく気に病み、いろいろと力をつくしてくれたのですが、私の体重はいっこうに増えません。やがて祖母は、すまなそうに盛岡に帰っていったのだ、と。このことは、祖母が亡くなってから聞かされました。そのときはじめて、祖母があんなに私のごはんを気にしていた理由が、やっと分かったのです。しかし私は、成長期を迎えて体がじょうぶになるまで、あまりうまくごはんを食べることができませんでした。ひとなみに食事ができるようになったころには、祖母はすでに亡くなっていました。
 
 そしてこれも、私長じてのち、祖母亡きあとに聞いた話なのですが、食と祖母にまつわるはなしを、もうひとつ。
 祖母はもともと、養女だったのだそうです。生まれたときの姿があまりにも弱々しく、しかも母親の肥立ちも悪かったために、長くは保たないだろう、と言われた赤んぼうが祖母でした。それでも、せっかく世に出た命なのだから、せめてわずかなあいだだけでも……、と申し出た夫婦に祖母は引き取られ、ほうぼうからもらい乳を受け、ときには馬のお乳でもって育てられたのだそうです。祖母は成人まで無事に育ちましたが、やはりあまり丈夫なひとではありませんでした。それでも、祖母のすっととおった鼻すじと、ぱっちりと開いた目は、若いころの美しさを偲ばせました。祖母の生い立ちそのものが、生きることとはすなわち、食べることなのだと、そう語ります。
 
 食べることは生きること、食べさせることは愛すること。
 年に一度しか来ない私たちのために、専用の小さな食器がきちんとそろえられていたこと。そこに、食べやすいように小さく切られた、心づくしのおかずの数々が、きれいによそわれていたこと。私たちは、どれほどに大事にされていたのだろう。記憶の断片を繰れば繰るほどに、今は亡い祖父母の思いを感じます。
 
 そろそろ、祖母の死から十五年、祖父の死から五年が経とうとしています。亡いひとにまつわる思い出の数々は、これ以上もう増えることのないだけに、失いがたいものです。それでも、少しずつ摩耗し、知らず知らずのうちに輪郭が変じているのを感じます。蝶の翅や、雲母のかけらにも似た、もろさゆえの鮮やかさが、そこにはあります。それが後悔の棘もつ一片であっても、その悼(いた)さも、また。Ich werde dich nie vergessen. 我、汝ヲ忘ルルコト勿ラン。
 
 こうして祖母のことをさまざまに思い出していると、庭で見たあの緑の目の印象が、もっとも強くよみがえります。その足もとにたなびくのは、うす青の霞。

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葛引すい子(Kuzuhiki Suiko) @KuzuhikiSuiko

90年1月生。秋田出身、札幌市在住。文系大学院に所属する学生。
写真は妹(右側)と庭で。94年、初春。

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ひらのにこ(Hirano Nico)

心の奥底に眠るものを、揺らぐ心を、少女を通じて淡く柔く描いている。
2014より都内を中心に合同展に参加。
アジア創造美術展2015(国立新美術館)にて審査員特別賞受賞。
http://www.nicohirano.com/