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希望の古本屋 3 岩尾晋作

PB091571

戦う観光地
 
 さて前回までに日本近代史の立体的把握の集結点、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が始まるところを書いた。
 と思ったが今確認したら違った。
 本屋には観光戦略が必要だという話であった。
 観光戦略というのは誘致広報コンテンツの整備等いくつか決まったやり方が確立されているのだろうが、私が思うには、わざわざ行きたい所になる、もうこの一言に尽きるのである。
 
 わざわざ行くところはどんなところか。
 例えば恋人のいるところ。
 世の中には遠距離恋愛というものがあって、もしその遠距離恋愛をしていると考えるとその土地自体には何の魅力も感じていないのに、恋人がいれば私はわざわざ訪ねるだろう。
 それも可能な限り頻繁に通うはずだ。
 
 これはどんな既存の観光戦略よりも強い誘引力である。
 こう考えると人に来てもらうにはコンテンツも広報も実は必要ない、という一種の極論を具体的にイメージできると思う。
 
 だから本屋にわざわざ来てもらうには、世界中の恋人たちの片方を本屋に囲い込んでしまうというのは論理的に有効である。
 囲い込む、というのは現実的にどういう手段になるかはわからない。
 監禁するわけにはいかない。陳列するわけにもいかないだろう。
 雇用する、というのが倫理的に一番正しい気がするが他にもいくつも代替手段はあるだろう。
 
 話は変わるがユニクロの服はお好きだろうか?
 私はいくつかユニクロの服を持っているがわざわざ人に「ユニクロが好きだ」ということはない。
 ちなみに私は文化服装学院服飾専門課程服飾研究科というカリキュラムを卒業していて、おしゃれではないが、ファッションについては一応専門的に勉強していて、服は大好きだ。
 服が好きだと自負する人ほどユニクロに対する評価は慎重だろう。
 陳腐だからと忌避するのではない。
 工業的に見るとユニクロの服は価格からは想像できないほどまともな縫製で、使われる生地も価格を考慮すると文句のつけようがない、というのが私の意見だ。
 カラーバリエーションもデザインも、うまく最大公約数を押さえてる、プロフェッショナルなマーケティングと言えるだろう。
 むしろ服飾の工業過程を知る人ほどユニクロの商品としての強さは一目置くのではないだろうか。
 私が慎重になるのは、服には機能、デザインに増して、物語を必要とするからである。
 男性に多いが、こだわればこだわるほど物語を欲する傾向は強まる。
 この話は長く退屈になりそうだからやめよう。
 何が言いたかったかというと、ユニクロの真骨頂は、大げさに言うと誰から適切に名指しで愛されてはいないのに、ほとんど誰もが所有しているということだ。
 これはある意味で最強のマーケティングである。
 興味のない人も顧客になっているのはすごいことだ。
 
 私はこれを東京マーケット、と呼びたい。
 顧客が多すぎて、愛されるよりも無難に振舞って(もちろんこれも狙ってやるのだから技術がいる) 嫌われないことに専念する。
 肩肘張った広報する必要がない。(もちろんその上で企業努力を惜しんでいないのは承知である)
 わざわざ行く場所になる必要はなく、わざわざ行く場所に隣接しているような状態である。
 
 さて我が大分市とカモシカはそうは言ってられない。
 我々は恋人を囲い込まなければならないのである。
 まじめに言うと、当たり前だが恋人の片割れを大分に、カモシカに、居着かせることは現実的な戦略としては実現不可能だろう。
 なぜなら、どちらかひとりがカモシカに来るように説得するカップルをどのように選定するべきかわからないし、選定できたとしても私の要望が聞き入れられないことが容易に予想できるからだ。
 
 ではどうすればいいのか。
 他所から引っ張るのが無理なら己が恋人になればよいのである。
 私はこれを恋する大分、と呼びたい。
 
 さて人の心を掴むというのは大変である。
 本当に難しいし、狙ってやっても見透かされるのである。
 人は広報によって恋するのではない。
 恋するように設えた所作に恋するのでもない。
 
 先日大分のミニシアター、シネマ5に「東京裁判」というドキュメンタリー映画を観に行った。
 1日限定上映で、尺が長い映画だから、2回しか上映がない。
 カモシカでも関連したイベントをさせてもらうので、上映が決まったとき動員数を懸念していた。
 イベント参加数を総動員数から係数を掛けて予想する必要があるからだが、まあこれは集客に困るだろうな、考えていた。
 蓋を開けると、2回とも満席である。立ち見である。
 もちろん、広報も行われたのだが、私はいちばん感じるのは必然性と意志である。
 
 ただ人を呼びたい、ということじゃなくて、上映したい、観るべき人がいるはず、必要とされているはず。
 そういう営為の繰り返しに人は意志をみる。
 もちろんかわいい人は大好きだが、結局人は意志に恋するのではないだろうか。
 
 恋する大分は意志する大分でなければならない、などと言うつもりはない。
 それは意志なき言葉だ。
 
「お前は意志を持つべきだ」
「はい、わかりました」
 
 それですぐに持てるほど意志は甘くはない。
 意志は物体では当然ないし、概念でも思想でもない。
 たぶん意志は遅い速度なのだと思う。
 迷いや恐れや不安を抱きながらも、やはり信じた方向に一歩、また一歩。
 その絶え間なく続く悪あがきや見苦しさには必然遅い速度がある。
 私はそれに恋をするし、私のそれを見てほしいと願うのである。
 
(了)

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岩尾晋作(Iwao Shinsaku)

カモシカ書店店主
1982年生 大分県大分市出身