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極私的シナリオ論・最終回〝直し〟 松下隆一

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 今回は〈直し〉について書くが、シナリオの直し方というものは人それぞれであろうし、また作品ごとのやり方もあろうかと思うので、ここでは方法論については書かない。ただ、日頃私が感じている〈直しに対する考え方〉があるので、それを書いてみたいと思う。だがそれは私自身の経験にもとづく偏狭な考え方にもとづいているので、あわない方についてはゴメンナサイと言うしかない。
 

【1】
 シナリオでも小説でも、文章、書き言葉というものは、作為をもって書いたとたんに我が手をすりぬけて、逃げて行ってしまうものだ。私はそのおそろしさを、最近になって、いい齢をして、衝撃をもって気づかされている次第である。
 何をもって気づかされたのか。それは、読み手という第三者の、客観的評価によってである。読み手の考え方、作品に対する思いの致し方、作品の本質のとらえ方において、私(書き手) がよしとするところを否定され、作家としての私自身の根本的な欠点を指摘された時、あらためて創作というものの奥深さを思い知らされたというわけである。
 いや、欠点の指摘などという生易しいものではなく、それまで自分自身が信じてきたものを一瞬のうちに崩壊させられ、生き方そのものまでを見つめ直さなければならない事態に陥ってしまったのである。
 
 プロの書き手とプロの読み手(プロデューサーでも監督でも編集者でも) というものは、絶対的な信頼関係を築かなければ作品に影響する。だが口では簡単に言えても、なかなか築けないのが本当のところだろう。なぜなら、読み手は作品を通して書き手のすべてを見通さなければならないからである。そして書き手も、読み手の全部を見てみたい、その人の本質を知りたい、知ろうとするところまでに至らなければ信頼関係は成立しない。つまり、表向きはともかくも、互いに相当なる覚悟、緊張感をもって作品に対して挑まなければいけないということになる。
 酒場でしばしば作品の批評をめぐって書き手と読み手が口論をし、ひと昔前ならば殴り合っていたのは、酒によってこの覚悟、緊張感が緩和されすぎるために起きることだった。遠慮のない批判は、作家を傷つけ、返す刀で批評者自身をも傷つける。だがそれも信頼関係があってこそ成り立つのであって、なければ単なる暴力沙汰で終わってしまう。
 
 これはあくまで私の基準ではあるが、優れた読み手、批評者は短い言葉で、本質を突いてくる。〈知〉ではなく、〈行〉で、作品を語ろうとする。作家が知で書いた部分の悪い作為、嘘を本能的に看破し、それを否定する。嘘を嘘と感じさせてしまう表現を全否定する。自らの行によって裏付けされた確かな感性を作品にぶつけ、真か贋かを問うてくる。
 これまで私が仕事を通して〈スゲエなこの人は〉と感じた人たちは、間違いなく〈知の人〉ではなく〈行の人〉であり、作品をよりよくしたいと、心から願う人だ。
 知の人は頭だけで思考するが、行の人は全身で思考する。行の人とは、自分の実体験から得た真理が身体に沁みついている人であり、自らの経験値というものに絶対的な自信を持ち、一切ぶれず、何だこの人はというくらい、見えない力で圧してくる人だ。作品の本質を直感的にわかる人だ。そのくせ遠慮のない言葉の節々に、書き手に対する、尊敬の念をかいま見せる。
 不思議なことに、そうした行の人というのは、その世界のプロとかアマとかは関係がないということだった。逆にプロと称する人の方が業界に慣れ切って、せまい世界の価値観を押しつけ、どこかで聞いたような知識をもって語ろうとすることがままある。その人にとって大切なのは、何はともあれ数字であり、金であり、自分であって、作品の本質ではない。
 いや、そうした人たちを否定はしない。それどころか、我々の世の中の大部分は、そうした人たちで成り立っているからだ。つまりは、ふつうの人たちということになろうか。ただ、創作の世界の中においては、ふつうでは困るのである。
 映画づくりがやっかいなのは、そうしたふつうの人とそうでない人が混在しているということに尽きる。何度もボケ老人のように繰り返して申し訳ないが、私が敬愛する大映京都で創られた映画が美しいのは、そうでない人たちの集まりであったからだ。監督もスタッフも職人であり、芸術家であり、哲学者であった。そうした感性が渾然一体となって、作品の奥深さを生み出した。
 
 映画というものが総合芸術である以上は、シナリオに対する読み手による客観的評価というものはとても大切である。それによってシナリオは直されることを思えば、作品そのものの質にダイレクトに影響を及ぼすからである。
 天才がこの世にいるとすれば、客観的評価をされないでも素晴らしいものが創れるだろう。だが、私のような凡庸な者は、この客観的評価に頼り、作品をより良くしていくしかない。つまりそれが〈直し〉というやつだが、極論を申せばシナリオというものは〈直してなんぼのもの〉である。
 現実的にはまず作品の予算があって、俳優のスケジュールがあって、そしてプロセスにおいて大小様々な問題が生じる。それにあわせてシナリオも改変してゆくのではあるが、ここではその直しについては書かない。まずは理想的なシナリオを創作するということを前提としたい。
 
 シナリオにかぎらず小説でもそうだが、直しには二種類ある。一つには自分自身で読み返して直すということ。そしてもう一つは監督やプロデューサー、スタッフ、編集者などの客観的な意見を取り入れて直すということである。アマチュアは前者に重きを置くしかない立場にあるわけだが、プロはこの後者の直しというものがとても重要なこととなる。極論を言えば、この後者の直しに耐えられない者は、基本的に物書きには向いていないといえよう。
 だが、先にあげたように、読み手が、知だけで語ろうとする人にあたった時はつらい。まず説得力を持たないし、根っこがないから、すぐにぶれてしまう。そういう人たちはだいたい、作品をつくることを目的化した人たちだ。作品の中身ではなく、つくることで自己満足する。そこで作家は妥協案を模索する。結果、作品を中途半端にしてしまう。
 昔から、映画が面白ければ監督のおかげ、つまらないのは脚本家のせい、といわれてきたが、場合によっては理不尽な直しも受け入れなければならないそのプロセスを考えてみると、脚本家というものは、実に損な稼業だと思う。
 しかし、よくも悪くも直しは避けて通れない。この屈辱に耐え切れぬ者は脚本家には向いていない。才能よりもまず、繰り返し直す忍耐力があるかどうか、脚本家の資質はそれに尽きる。
 
 若い頃、ペラ十五枚ほどのプロットを二十回以上直したことがある。だがそのプロットはフリーのプロデューサーからテレビ局のプロデューサーに渡ることはなかった。結果、私はキレてしまい、殴りはしなかったが、怒鳴りつけてその仕事は終わってしまった。
 若い脚本家志望の人は、私のようなこうした愚行をやってはならない。私は昔とても気が短く、そのために相当損をしてきた。とにかく耐えることだ。何百回でも書き直すという覚悟と気概をもって作品に挑むことだ。耐えて忍んで粘り強く書き続ければ、何とかなるものだと信じることだ。
 だが、その一方で、矛盾を承知で書くが、時にはケンカもしなければならぬ。いや、私のように方法論でケンカするのではなく、内容でケンカをしなさいということだ。
 シナリオ作家協会の会合の席上、あるベテラン脚本家がこう言われた。
「若い脚本家諸君よ、ケンカをしよう」と。
 今はケンカをしない時代になってしまった。こじれて仕事を干されることをおそれ、プロデューサーの言いなりになり、結果、作家も作品も犠牲にしてしまう。全部とは言わないが、昨今のドラマの低レベル化は、それを如実に物語っているといえよう。
 ケンカ、といっても昔のように殴り合いをするわけではない。自分の意見が通る通らないは別にしても、ダメなものはダメ、と言えるかどうかだ。ここを貫かないと、作家にとって、自殺行為に等しくなる。
 
 白状すると、昨年、ある映画のシナリオをめぐって、プロデューサーとぶつかった。その理由は、私の原稿に、勝手に手を入れて書き直してきたからだ。それだけはやめて欲しいと、前もって言ってあったのに、である。百歩ゆずって書ける人ならまだいい。だがシナリオをふだん仕事で読んでいるくらいのレベルでは、映画のシナリオは絶対に書けないのである。
 こうなるとどういうことが起きるか。逆に私がプロデューサーの立場になってこれはおかしい、あれはおかしいと指摘しなくてはいけなくなる。愚かしい本末転倒というやつである。私は、仕事の中でシナリオ教室を開くほど閑人ではない。
 当然ぶつかる。プロデューサーはある意味権力者であるから、気に入らないとなると、最後はわけのわからんいろんな理由をつけて仕事をおろしにかかる。よくあることである。
 別にプロデューサーを責めるつもりはさらさらない。いろんな仕事のやり方があるだろうし、それぞれの政治的な立場というものがある。だが、これだけは絶対にやってはならぬと思うのは、作家の分身ともいえる作品を、無断で、勝手に書き直すということだ。
 三流とはいえ、私にとって書くことは生活そのものであり、書くということで私自身が支えられている。それを無断で奪い取るということは私自身を奪い取るということでもある。そうした想いを斟酌し、慮るのが本来はプロデューサーの仕事なのである。
 私の信頼するあるプロデューサーは、どんなに小品でも、私のシナリオを最低でも五十回以上は読む。深く読むことで私と比肩しようとする。そして作品の本質を鋭く突き、直しを要求する。ある時などは、たった一つのモノローグをめぐって徹夜で口論したこともある。それも作品を思えばこそであり、彼は私の作品に敬意を表し、私は彼の姿勢に敬意を表している証でもある。意見の相違、衝突はあっても、そのプロデューサーを認めて、信じている。
 
 不思議なことに、この世界では、監督はできなくても、シナリオは書けると思っている人が意外に多い、と思うしかない。それはだいたいの人間は文章の読み書きができるからだ。だから、シナリオを読んでいるから書けると、錯覚してしまう。
 逆に言わせてもらおう。私が「明日からプロデューサーや監督になります」と言ったらどう思うかということだ。それと同じことを勝手に書き直したプロデューサーはやっているのに等しい。
 藤井浩明さんというプロデューサーがおられた。昨年亡くなられたが、大映出身のプロデューサーで、スタッフからは〝コウメイさん〟と慕われた方だった。
「一時間もののシナリオだったら私にも書けますが、映画の長さ(二時間)となると書けませんね」
 と講義でさらりと藤井さんは言われた。そして、ひとかどのプロデューサーなら、一時間もののシナリオくらいなら書けなくてはいけないという話だった。
 これはまさしくシナリオを書いた者の本物の言葉である。シナリオ創作において、一時間と二時間(映画)の間にはおそろしいほどの隔たりがあることを知っているプロデューサーは、今どれくらいいるのだろう。
 藤井さんほどの人ならば、勝手に直してもかまいません、と私は言うかもしれない。シナリオの本質というものをわかっているからだ。だが、そういう人にかぎってそんなことは絶対にしないのである。
 一時間と二時間との間には何があるか。シナリオにおいては、それはもうごまかしのきかない人間心情の持続、緊張でしかない。テレビドラマでも映画でも長尺ものの成功作が少ないのは、この二時間に耐え切れないシナリオを採用しているからだ。断っておけば、ここでいうところの成功とは、視聴率や観客動員数といった数の問題ではない。作品の本質の問題である。
 何だかまた話がそれてしまったような……まあいいや、とにかく話を続けよう。
 
 
【2】
 では、直すにあたいする批評、指示をする側の人の資質というものはどうあるべきなのか。
 前述した通り、映像でも出版でも、私の尊敬するのは〈知〉ではなく、〈行〉で語る人だ。知というのは大学で勉強したり、自分で本を読んだりして身につけられるものであり、ひいては努力によって誰でもが得ることのできるものであろう。およそ世の中で創作に携わっている人の殆どが、この知で語るタイプの人たちである。
 映画ならある監督を、小説ならある作家を基準にして、物事を語ろうとする。いわゆるインテリ層の人たちが好むところである。ゴダール論とか小津論とか、論がつくものを好む人たちだ。(テナコトヲエラソウニ言ッテイル私モ〈シナリオ論〉ヲ書イテイルノダガ……)
 批評ならまだいい。だがこれが創作の領域にまでおよんでくると、相対論的な解釈に終始し、その作品そのものの絶対論、本質論にはならないことが多いのである。すべてが借物のようなことになってしまい、オリジナリティのない、いかがわしいものにしかならなくなる。
 名作映画のワンシーン、シチュエーションを取り上げて、あんな感じにして欲しいと言う監督が時々いるようだが、そうした人を私は信用しない。思ってはいても、言っては欲しくない。
 行で語る人は、そうした似非的思考が全く通用しない。逆に作家側がそうした作為をもって書いたとすると、直感で見抜き、完膚無きまでにダメだしをする。
 行で語る人の基準は、その人の生き様、生きてきた生活そのものである。その人の生き様が沁みついた肌の感覚をもって作品にアプローチされるがために、作家自身の瑕疵にも深く入り込み、傷口に塩を擦り込むようにえげつない、容赦のない批判をする。
 前回の『極私的シナリオ論5“セリフ”』の最終章で書いたように(これは出版の話だが)、実際私は行の人にとことんやられて死ぬかと思ったわけだが、もう一人そういう出版関係の人があって、その人も行の人で、遠慮がなくて、酒の席でボコボコにされてしまった。しかも、ケンカにもならなくて、落ち込む私に、二人とも平気な顔をして言うのであった。
 つまりは、私の根底にある似非ヒューマニズムというか、甘さというものをグサグサと何度もナイフで突き刺すように繰り返し批判するのである。
 このお二人はインテリどころか、一人は高卒であり、もう一人にいたっては中卒なのだ。おそるべしではないか。
 これまで京大とか東大とか有名大学の人たちとも知り合ったが、その殆どの人が私には何の刺激ももたらさなかった。そういう人たちは概ね、知で語る人たちであり、全くといっていいほど、魅力を見いだせなかった。知で語るのは、所詮は自慢か閑つぶしかといったところで、作品には何の良き影響も与えてはくれなかった。
 ところが行で語る人の言葉というのは、生き様が哲学になっているのでリアリティという本物の重さがある。いや、誤解のないように言えば、彼らに知がないということではなしに、それこそ本もたくさん読んでいるので、知と行の相乗的な感性を持ち合わせているといっていいだろう。
 こうした人になると、私は全面的に信頼を寄せ、失敗してもいいから一度は言う通りに直してみようと思ってしまう。
 
 だが、それにしても、作家としての自分の根幹、資質にふれられ、批判されるということは地獄である。どうにもならないことをどうにかしなければならないといった、苦しみ、おそろしさばかりがあって、かなり自分を追いつめないといけない。それをやれ個性だのオリジナリティだのと言って抵抗を試みるのは、所詮は作家の逃げ口上だ。なぜならやっかいなことに、行の人たちの判定する基準は、単純にその作品が面白いか面白くないか、の感覚だけだからである。知の理屈、逃げ口上が全く通用しないのだ。
 生き様に裏付けされた確かな絶対的自信というものは、人間が生活するにおいて、あらゆる局面で生かされる。行の人は映画を映画で語ろうしとしないし、小説を小説で語ろうとはしない。彼らは映画でも小説でも人間の生活として語ろうとする。そこにはほんまもんの批評、指摘がある。
 だから、そうした人に真っ向から批判されると地獄なのである。自分自身の生き方を見直さなくてはいけなくなる。その地獄の真っ只中に、私はいる。シナリオではなく、小説を前にして暗澹たる思いが続いている。いい齢をして情けないとも思うが、それが現実でもあるので、何とか乗り越えねばならぬ。
 
 冒頭にも書いたが、行の人からすれば、作為が見えるとダメだしを食らう。無意識の描写はほめられる。およそ芸術は無意識の意識だと私は思っている。その無意識の中にこそ、本当の自分というものが潜んでいることに、書き手は気づくべきなのだろうが、どうすればいいのかという方法論が見つからない。
 それを解決するためには、いくら頭の中で考えていたって仕方がない。とにかく書くしかない。そう、書いて直すしかないのである。黒澤明だってドストエフスキーだってヘミングウェイだって、直しに直しを重ねてきたのだ。凡人たる私などはその百倍はやらねばならないだろう。
 
 
【3】
 先頃、我が師匠と会食した際、「シナリオって教わるものですかね?」という疑問を私が口にすると、師匠は即座に「教わるもんとちゃう。自分が書きながら勉強するもんや」という答えであった。
 私は昨年まである大学で五、六年ほどシナリオを教えていたが、とにかくみんな習作をしない。書いてきても、直そうとしない者が殆どだった。ひどい時は撮影が終わったシナリオを持って来る者もあった。そんなものを私にどうしろというのだろう。とにかく、シナリオを書きたいと言うくせに、書かない、直さないでは話にならないのである。だから、結論として、私は思った。ものを書くという行為は教えられるものではなく、生活の一部として、とにかく書きたい奴が書いて前に進んでゆくだけの話なのだと。
 そんなこんなで教えることにあきらめかけていたところが、大学を辞めてから、最後に教えた学生がゼミの短編作品を読んでくれと送ってきた。内容は、自転車の鍵を壊された高校生が、学校から家に帰るというだけの話である。だがその中には、高校生がその町で生きているというリリカルなタッチがあってそれがよかった。
 だが、文章やシナリオの基本的な書き方がなっていないので、かなり厳しく指導をした。メールでのやりとりだったが、十回以上は直してきただろうか。今までに二度や三度は直してきた学生はあったが、そこまで直してきた学生は初めてだった。おそらく彼の中では二十回は直しているだろう。
 学生の書いてくるものの中には、直してもダメなものがある。それはただ単に映画を撮りたいからという意識、撮影を目的化して書かれたものだ。これはある意味由々しき問題でもあるのだが、学生の書くものの殆どはこの、撮りたいからというものだと言っても過言ではない。
 それが根本精神だと当然、直しにおいても粘りがきかない。ダメだしをするとすぐに投げてしまう。直すのが苦痛で直さない。なぜなら、作品を創る動機、作品に対するこだわり、思いというものがもともと希薄であるからだ。だが、先の学生は自らの実体験をベースにしていて、自分の実際の感覚というものを作品の中で懸命に昇華させようとしていた。
 
 このシナリオ論でも繰り返し書いてきたが、書く動機というものは意外に大切だ。映画はどう撮るかではなく、何を撮るかにこだわらなくてはいけない。つまり、どう書くかではなく、何を書くのか、何を世に問うのかという姿勢でなければ、結局は自分自身のための作品、マスターベーションになってしまう。だから客観的に批判されると挫折し、直すことができないのである。どう撮るか、どう書くかは方法論であって本質論ではない。アマチュアならそれでいいかもしれないが、プロとなればそういうわけにはいかない。つまり、人に伝えるという意識、それが大切だ。
 なぜわかってくれないんだ、認めてくれないんだという思いや、どうすればいいんだという苦悩は、作品にとってはプラスになる可能性はあるが、認めてもらえなくったって俺はすごいものを書いているんだという自負は戯言にすぎない。書くことが一生趣味でいいという人もいるだろうが、そんなものをネットでまき散らされては迷惑千万である。一万人、十万人の人々を納得させ、心をふるわせてこそのシナリオであり、小説であって欲しい。
 
 誤解をおそれず言うならば、若い人よ、ネットとか同人誌とか場があるからといって、安易に作品を発表するべからず、である。客観的評価のないまま作品を公にするのは、単なる自己満足であってそれは真の意味の創作などではない。プロになるなら、正鵠を射た客観的評価を通して、読者というもの、観客というものを意識した作品づくりをするべきだ。だからこそコンペという場があるのだ。その場で腕を磨き、やがては頂点に立つのが王道であり、一番理にかなったプロへの最速の道なのである。
 
 
【4】
 いい齢をして、書くのもお恥ずかしい話だが、凡庸で周回遅れの私は、それを書くことでもう死んでもいいと思うくらい、思いつめて書かないといけないと自らを戒めている。コメディであれシリアスであれ、シナリオであれ小説であれ、およそ観客や読者の眼にふれるものは、命を削ってでも書きたいと思う。
 これはあくまで、私自身の考え方の問題だ。他の人に勧めるものではない。考え抜いてその先にあるものを突き止めることが好きだし、そうしないで書くのは、シナリオや小説に対する冒涜だと思うからだ。ただ、若い人には説教でこう言うことにしている。「あなたはとことん考え抜きましたか?」と。私自身ができないから、反面教師で言うのだ。
 これは知識の問題ではない。書くという、やはり行の問題だ。行という名の、真実を突き詰めるという、途方もなく疲れて、骨の折れる作業だ。だが、名を残している作家は絶対にそれをやっているはずだと信じている。
 
 私事ばかりで申し訳ないが、残された時間は意外に少ない。時間は大切だが甘い存在ではない。辛辣な、いや五十路も過ぎてしまうと悪辣な存在にも思えてくる。お前は何をやってきたのか、何を残してきたのかと問われて、答えに窮する。残酷だが、それが現実だ。だから、若い人たちにはそんな風になって欲しくないから、私はこんな雑文を書いている。
 物書きの仕事は、金儲けでも地位や名声を得るためでもない。まず、佳い作品を残すことだ。その作品によって結果、人に善き影響を与えることだ。そのための方法論を模索するのか、無視するのか、それは自由だが、今世の中に名を残している人は、間違いなく、模索し続けた人たちだ。
 今もどうすればよいのかわからない状態で止まってしまっている。だが、それは私自身の考え方が足りないからだと思うしかない。ただ確かなことは、繰り返しになるが、客観的評価を受けて、直さなくてはいけないということである。締め切りのギリギリまで考え抜いて答えを出すしかない。
 結局いいものを書くためには、世に訴えるに値する素材を見つけ、物語り、直しを重ね、作品化するというだけなのだろう。ただこれは、自己満足もビジネスも無しで、純粋なる創作という意味においてではあるが、それが今の世の中にどれだけ通用する考え方なのか、それはそれで甚だ疑問ではあるのだが。
  
 以上、直しに関する私感、雑感を書いた。
 具体的な直しの方法については書かないとはいえ、お勧めの直しのやり方を最後に一つ。それは、直す時に部分で直すのではなしに、冒頭から書き写しながら全体を直してゆくやり方である。一から書き直すことで地の文やセリフといったディテールや誤字脱字の直しは勿論のこと、全体を俯瞰できるので、構成の問題や、人物の心情の流れの矛盾というものも見つけられる。とても骨は折れるが、せめて初稿を書き直す時だけでもやってみてはどうだろうが。
 
 さて、約半年にわたっておつきあいして頂いた雑文だが、今回で最終回となった。シナリオについては書くことはまだまだ山ほどあるが、これ以上書いてもシナリオを書かない、興味のない人にとってはあまり意味のないことであると判断したので、ひとまず最終回とさせて頂いた。これまで好き勝手に書かせて下さった加地編集長のご厚意に心からの謝意を表したい。
 とはいえ、編集長からは次は映画批評みたいなことでとお願いをされたので、それなら多少は気が楽な部分もあり、引き受けた次第である。まあ〈シナリオを軸にした映画批評〉てなものでも書こうかと考えている。
 
 読者の皆さん、最後までおつきあい下さり、ありがとうございました。次回から気分も新たによろしくお願い致します。それまでどうかお元気でお過ごし下さいませ。
 

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。