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極私的シナリオ論4〝ト書き〟 松下隆一

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【1】
 一般に、映像(劇映画、ドラマ) のシナリオを構成する要素は三つだけとされている。つまり、柱(シーン、場面) とト書きとセリフなのだが、いつからこういう形式となったのかは定かではない。ただ、歌舞伎や新劇の台本の形式がベースとなっているのは確かであろう。ちなみにト書きというのは、歌舞伎の台本などで、セリフの後に、“ト思入れ” などと書かれていたことからそう呼ばれている。
 だが、こうした形式は便宜上のものであって、絶対にこうしなければならないという決まりではない。したがって、小説のようなシナリオがあってもかまわないし、むしろ形式にとらわれるために内容が死んでしまうといったこともある。
 ただ、映画ともなれば何十人、何百人というスタッフがそのシナリオによって映像イメージを組み立てる。だから、できるだけイメージの誤差を少なくするためには、そうした定型を持つことも大事である。
 小説を読んだ時の映像イメージは百人読めば百通りのイメージになるが、シナリオは百人読んでもイメージは一つとなるはずだ。シナリオは映像表現を前提としているから、的確に表現できていれば、読んだ者の頭の中には一つのイメージ、映像しか浮かばない。この一つのイメージというものが、伊丹(万作)さんが言うところの、
『シナリオの形式上の問題で必ずかくあらねばならぬということはひとつもない。それは自然に決定される。たえず次のことさえ忘れなければ。すなわち、どうすればシナリオの読者に映画を見ていると同じ気持ちにさせることができるか』
 であって、このイメージが散漫であれば悪いシナリオといえるだろう。
 
 私は、シナリオの究極的な形は“詩” だと思っている。それも観念的ではない、具体的な詩だ。誰でもがわかる言葉で書かれ、深い心情が読み取れ、胸をうつもの。若い人によく言うのは、「詩を書くとなれば一行、一言一句おろそかにはできないだろう?」ということだ。
 実際、シナリオをもとに、たくさんのスタッフ、俳優が仕事をする。シナリオの中に多分に自分の趣味であったり、言葉遊びであったり、無駄があれば、スタッフも俳優もそれに踊らされるということになる。ひいては効率も悪く、不経済でもある。
 撮影の具体的な仕事は、時間であり、お金である。一人一万円もらって百人が働けば、一日百万円のお金がかかる。突然の雨でロケが中止になれば、それだけのお金が無駄になるという計算である。
 だから、脚本家は、内容もさることながら、細心の注意を払って、仕事として成立するように、シナリオを書かなければならない。嵐のシーンがいくら劇的であっても、予算上、それができないとなれば書くだけ無駄というものだ。優れた脚本家は、嵐以上の効果を持つシーンを、予算内でつくりあげてしまうものなのである。
 
 映画は芸術だが、シナリオ単体では芸術ではないし、文学でもない。かといって、映像の設計図でもないし、指示書でもない。そこに書かれていること、ト書きやセリフは、人間そのものの生き様にしかすぎない。人間の営み、それ以上でも以下でもない。シナリオを読むということは、人物の人生、生きている世界そのものを体験するということだ。それは芸術の世界ではない。具体的な、体験の世界だ。だが、全くの暗闇から始まり、光をあて、ゼロから生きた人間を生み出すという、その空間が優れた監督の手によって映画となった時、観客がほんまもんの世界を観た時、芸術として認知されるのである。
 
 およそシナリオを書くという行為は、ほぼ、技術の集積といってもいい。しかも高度な技術を駆使して描くものなのである。シナリオを生かすも殺すも技術だと言ってもいい。もちろん、テーマや作家の精神性というものは大切だが、技術がなければそれを生かすこともできないのがシナリオだ。
  
 ト書きをどう書くか。
 それは簡単なことであって、その一行によって画をイメージさせればいいのである。しかも鮮やかに。だが、簡単と書いたのは理屈の部分であって、それだけの描写をするには相当の訓練が必要となる。
 若い人のシナリオを読んでいてアカンなあと思うのは、ト書きに対する考え方というものが、単なる人の動きになってしまっていることである。例えば、“太郎、歩いている。” という一行は、太郎が歩いているというそれ以上でも以下でもない。歩いているという行為を書いているにすぎない。もちろん間違いではないし、撮影もできるだろうし、情景的にはそういった場面もあるだろう。
 ただ、もう一歩踏み込んで考えた場合に、この太郎君は今、どんな心情なのだろうかということだ。家族内のトラブルを抱えているとか、学校や職場でうまくいっていないとか、逆に彼女ができてウキウキしているとか、借金取りに追われてビクビクしているとか、それを考えただけでも歩き方や所作が変わってくるだろう。
 いや、ただ単に通勤や通学の途中かもしれない。そういった場合は説明的なシーンとなっていることが多いので、その場面そのものをカットしてもかまわない。
 大切なのは、人物の心情をベースとして、ト書きを考え抜くということだ。そうなれば悲しいなりの歩き方、楽しいなりの歩き方があるだろうし、彼の見ている周りの情景も心情というフィルターを通しているので、そういった見え方をするはずだ。
 トボトボ歩いているとか、ウキウキとして口笛を吹いているとか、腹が立って看板を蹴り飛ばすとか、そんな描写をト書きにおいて少し入れてやる。その一行は小さなことではあるが、積み重なった場合に、読み手(観客) にはより濃厚に人物の心情というものが伝わってくるだろう。
 セリフで生っぽく悲しいとか嬉しいとか言わせないでも、こうした描写を積み重ねて、画でわからせるということが重要だ。気をつけるべきは、悲しそうにとか嬉しそうにという表現である。『花子、悲しそうな表情でベンチに座って待っている。』というト書きは間違いではないが、当然、現場において、具体的にどういう所作をするのかという演出、演技の両面においての問題が起きる。脚本家が完璧なイメージを求めるのなら、ここで何かを足してやるべきだろう。一番わかりやすいのは小道具を使うということだ。弁当を食べているなら、途中で食べるのをやめたり、野良猫にやってみたり、携帯にメールが入ったり、人物のリアクションにおいて、はっきりと心情というものが読み手(観客) に伝わるのがいいシナリオというべきだろう。
 もっと言うならば、花子のお弁当というものを出すことによって、美術スタッフは花子の個性、好みにあわせた弁当箱や弁当の中身を決定するだろうし、ひいてはそれが日常のリアリズムを生み出す。一見とても小さなことのように感じるが、こうした描写の積み立てによって、人物が本当に生きているのだということを観客はさりげなく擦り込まれるのである。
 
【2】
 シナリオの形式の話に戻るが、実は、サイレント(無声映画)時代の脚本は今よりも遥かに自由度があり、伸び伸びとしていた。
 私の好きな脚本家に 山上伊太郎という人がいる。伝説的な時代映画『浪人街 第一話・美しき獲物』(一九二八年/監督・マキノ正博) の脚本を読むと、山上氏のはっちゃけぶりというか、自由に書くということはこういうことかとわかる気がする。
 ではそのファーストシーンを少し長い引用になるが紹介する。
 

場面 溶明。くらい寂しい街の一角に、時刻は夜更け、一隅に居酒屋があって、その縄暖簾
  パラリとかきわけるとのぞきこンで、地廻りらしいのが――顔馴染をひやかしてたらと
  思ったら、フラフラと、泳ぎ込ンでしまった。
  あとに縄暖簾がユラユラ揺れていた。

場面 下卑た、熟柿臭いにおいがいやにムウとこもっていた。春も遅いうんきである。
  クダまいているの、スットン狂な声をあげてるの――そいつらの蠢いてるのに、一瞥、どろんと据わった眼をくれて、ヘベレケの浪人がみこしをあげた。「亭主亭主、勘定だ!」
  近くへ寄ってみると――それが、荒牧源内で、身なりはリュウとしている、この店に似合わぬ風采「そうれ取らせるぞ」どう間違ったのか財布を渡した。亭主おしいただいて開けてみて吃驚した。逆さにふってもカラッポ。
  源内ときたらそのままフラフラフラと出てゆきかけている。で、亭主あわててすがった。
  追いすがってやいのやいのをきめこンだら、源内はまっすぐに立ってられない程酔ってる。フラフラしてる。いい加減しゃべらしといて、
T「心配するな、呑み逃げはせぬ」
  と云って、亭主をホッと、さしといてから、
T「つかわすぞ。つかわすぞ」
  ときた。ポッポをなでるようにしたが、
T「あるときにはなッ」
  と腹を叩いた。それから――
T「いまはないッ」
  で亭主野郎はつきまとい、また候ヤイノヤイノ、をきめこンで――まことにうるさい。
  呑み助達、面白がったり、目をみはったり、なンとずうずうしい二本棒だなアと蔭口をきいたりしてると、亭主野郎を肘で押しのけて、
T「鼻血も出ぬと申すに」
  と源内眠気がさしてる。それでも亭主ときたらしつこい。まだゴタクをならべる気でいやがる、と見て、
T「ない袖は振れぬわのう」
  と、どいつかが半畳入れたのである。亭主も源内もそいつにまなこをとられた様子。
  席をはなれて、ノソリ――と揺ぎ出てきたのが、赤牛で、――こいつ弥五右衛門とかいう――ジロリと入念に見なおしておいておとなしい出かた。
(「山上伊太郎のシナリオ」マキノ雅弘・稲垣浩編/白川書院刊より)

 

 どうだろうか。サイレント映画なのでTは字幕ということになるが、その場の空気、退廃のムードというものがよく出ていて、キャラクターも立って、面白いシナリオに仕上がっている。
 時代劇特有の硬質さから逃れて、自由奔放に筆を走らせているのがわかる。今のシナリオと比べたって遥かに自由度がある。あの天才監督、山中貞雄をもってしても、山上シナリオは羨望の的で、嫉妬のあまり酔い潰れたりもしているほどだ。
 しかもこの時山上氏は二十五歳であり、監督のマキノ雅弘にいたっては二十歳という若さである。映画はもともと若い者の芸術なのだ。だがその若さで優れた映画をつくろうと思えば、人並み外れた知識、経験、勉強が必要であっただろう。
 山上氏がロシア文学に影響を受けたというように、場末の酒場のその匂い立つような感覚、そこに生きる人々の息遣いまでもがきこえてくるような、そのシナリオ的感覚に驚嘆するのである。しかも二十五という若さでこれだけのものが書けるというのは、文学の勉強はもちろん、場末のうさん臭い酒場にも入り浸っていたのだと思う。この知と行のバランス感覚が抜群なのである。
 だがその後、トーキーの時代になり、山上氏はリズムを崩し、スランプに陥ってしまう。そして所属会社からもリストラされ、失意の中で志願して戦争報道班にくわわり、四十一歳の時に戦地で行方不明となり、それきりとなってしまった。家族のもとには空の骨箱が届けられたという。
 それを思うと悲劇的な脚本家ではあるが、サイレントの一時期、天才と呼ばれるにふさわしい一時代を築いた。
 こうして彼の書いたサイレントのシナリオにふれるだけでも、我々映画人は、財産だと思う。そして、こうした試みを今にやってもええやないかと思ったりもするのである。
 ちなみに「鼻血も出ない」というフレーズが好きで、私はプロデューサーなどから散々いじめられた時に、最後の決めセリフで「逆さに振っても、もう鼻血も出ません」とメールに書いたりするのだが、これがなかなかウケがいいので、皆さんも何かの局面で使ってみたらどうかなと思う。
 
【3】
 これはあくまで私の場合において、ではあるが、ト書きにおいては気をつかうのはファーストシーンである。逆に言えば、このファーストシーンにおいて、あまり工夫がなく、単純に書いているようなシナリオはダメだ。どれだけ素晴らしい発想を持っていても、コンペならその時点で落とされてしまう。技術を身につけてないということは、勉強をしていないということだ。勉強をしていない者のシナリオを読むほど審査員は閑ではない。
 ではここで、優れたシナリオのファーストシーンを二つばかり紹介したいと思う。
 

映画『点と線』より(脚本・井手雅人/原作・松本清張)
○  男と女の寝顔
  黒い岩に頭を並べて眠っている。
  女は仰向けに、男は横を向いて、その片腕は女の首の下に枕のように差しのべられている。
  微風が女の髪の毛を揺らしている。
  黒い岩を這って来た小蟹が一匹、女の顔の上に這い上がった。だが、女の瞼は閉じられたまま、ピクリともしない。
  パッとフラッシュの閃光。
  白い上っ張りの男——鑑識係が次のキャメラポジションを決めて、又フラッシュ。
  男と女は屍体なのである。
  警察医がしゃがみこんで検屍している。
  その背中からは、刑事部長らしい男が覗き込んでいる。そして刑事や警察官らが、それぞれの任務に従って、黒い岩の上を動きまわっている。
  その事務的な、然し能率的な動きの中に、汐風にさらされて横たわっている屍体は、まるで二つの物体のようだ。
  寒々しい冬の朝――。
  博多の郊外、香椎湾の海岸の黒い岩の上で現場検証が行われている所である。

 

 どうだろうか。ちなみに井手雅人先生は、直木賞候補にもなったこともある脚本家であるが、見事なト書きである。柱の“男と女の寝顔” から惹きつけられ、二人の詳細な描写がある。
 ここで大切なのはト書きの中にクエスチョンがあることだ。この二人は何をしているのか。なぜカニが這い上がっても女は動かないのか。読み手はそれを知りたくなる。これがテクニックというものだ。
 その解答がフラッシュである。それによって男と女は屍体であり、そこが現場検証という場であることがわかる。多分に文学的な語り口ではあるが、これくらいに繊細なタッチで綴らなければ、映画にはならないのである。
“男と女の心中屍体が岩場に横たわっている。” てな始まりではダメなのだ。観客にどう発端を説明的ではなく提示するのか、どうすればファーストシーンで惹きつけられるのか。それを徹底的に考えなくてはならない。
 
 次は黒澤明監督の名作よりご覧頂こう。
 
 
 

 映画『羅生門』より(脚本・橋本忍、黒澤明/原作・芥川龍之介)
○ 羅生門
  猛烈な夕立に煙った様に見えるその全景。
  雨やどりしている人影が二つ小さくかすかに見える。
  その二人――一人は旅法師、一人は杣売。
  二人とも石畳の上に腰を落して、石段の上の叩きつけるような雨足を瞶めたまま、何かじっと考え込んでいる。
「わからねえ……さっぱりわからねえ」
  杣売がポツンと言う。
  旅法師はその杣売の横顔をチラッと見るが、また視線を雨足に戻して動かなくなる。
  その衣の袖から、ぽとり……ぽとり、水滴が石畳に落ちる。

 

 この作品はご存知の通り、日本人として初めて国際映画祭(ヴェネチア国際映画祭) でグランプリを獲得した名作である。もともとは芥川龍之介の原作をもとに橋本忍先生が脚色したのが最初で、原作ものを書くことを勧めたのは師匠の伊丹万作だった。そのホンを最終的に大胆に書き替えたのが黒澤明監督であった。
 さて、短いこの導入部においても、クエスチョンがある。いや、この作品全体を貫くテーマというものを、このファーストシーンで明解に提示されている。そして、映像のイメージというものが完璧である。
 羅生門、雨、旅法師と杣売。わずか十行ほどの間に、映画の詩、神秘性というものがよく表現されている。映画を観た方はわかるだろうが、映像は完璧だ。
 余談だが、この映画は撮影監督の宮川一夫キャメラマンを筆頭に、大映京都という職人集団がなければここまでのクォリティには達していなかったかもしれない。私はこの映像をつくりあげた大映京都のスタッフの先生方に教えを受けたが、撮影、照明、美術、録音、編集など、どのポジションにおいてもシナリオの一行一行を深く読み込み、考え抜いて映像化することのすごさ、大切さを思い知らされた。
 だから、いかに素晴らしいト書きを書いたとしても、それを正しく映像化する思想、テクニックがなければ正に絵に描いた餅なのである。優れたスタッフとは徹底したこだわりを持つ職人気質、大学教授のような学術的、化学的知識、そして詩人たる感性を持ちあわせていないといけない。テレビドラマと違って、単なる技術屋では、映画の世界観が構築できないのである。
 
 ともあれ、シナリオの発端部分は、次がどうなるのか、その次を読ませてくれと言わせなければならない。そのためには、作品全体を貫くテーマや、人物の心情をベースにして、ト書きを綿密に組み立ててゆくことだ。この映画には重要な何かが隠されていると、読者に知らしめるのである。それが殺人事件であったり、人物の葛藤であったりするわけだが、ここで雑なト書き、稚拙なト書き、味のないト書きで表現してしまうと、映像イメージが損なわれ、次を読もういう気になれない。いや、もちろん発端部分だけでなく、シナリオ全体においても細心の注意をはらってト書きを書くべきではあるが、特に発端部分においては読み手の期待が大きいだけに、注意が必要だということだ。
 
【4】
 学生たちに教えていた頃、この教え方が一番だと思ったのは、同じ原作をもとに、学生の書いたシナリオを私がリライトしてみるといったことであった。とにかく率先垂範だと気づいたわけだが、それに気づいたのは学校を辞める最後の学期であった。教えるというのは本当にむずかしい。だが、思い返せば、自分自身が彼らに教えられることの方が多かったような気がする。教えるということは、教えられるということだ。
 さて、ト書き部分における、リライトのサンプルをあげてみれば、よりわかりやすいと思うので、ここに紹介したいと思う。
 最初は学生の書いたシナリオ(ファーストシーン) からどうぞ。
 

○ 食堂
  食堂『さくら』で手紙の返事を書く高橋武志(五七)。
  その手紙――『母へ、私が家を出てから四十年』。
武志(声)「その間送られてきた手紙を一度も読まず、心の隅に忘れたかのように放っていました。遅くなりましたが手紙の返事を書いていこうと思います」
  武志、手紙の束から四月十六日の手紙を取り、きれいな字で書かれたその手紙『高橋武志様へ』。
  メインタイトル。

 

  次に私がリライトしたものをどうぞ。
 

○ 食堂『さくら』・店内
  裸電球が灯っている。
  薄暗い店内でテーブルに向かい、背中を丸めて何かをしている男、高橋武志(五七)。
  武志は便せんに向かい、手紙を書いているのである。
  その手紙――『前略、お母さんへ。私が家を出てから四十年』
  と、書きかけるが、手を止め、いきなり便せんをひきちぎって丸める。
  ふと傍らを見る。
  テーブルに置かれた分厚い手紙の束。
武志「……」
  赤茶けて剥がれかかった壁の品書き。
  厨房に乱雑に積み上げられた鍋や食器。
武志「……」
  と、また気を取り直すように書き始める。
武志(声)「前略、お母さんへ。私が家を出て四十年。その間、送られてきた手紙を一度も読まず、心の隅に置き去りにしてきました。遅くなりましたが、手紙の返事を、書いていこうと思います」
  武志、手紙の束から一通抜き取る。
  『高橋武志様』と達筆な筆文字で書かれた宛て名。
  武志、封を切って読み始める。
  その手紙――。
  メインタイトル。

 

 どうだろうか。ト書きというものが、単なる人物の動きを書くのではないということが、おわかりいただけたのではないだろうか。
 これを読んで、「先生、書けるんですね」と、失礼なホメ方をした学生がいたから、「当たり前や。これで飯を食うてるんやさかいな」とは言いつつ、その飯も貧しい定食では大して自慢もできないなと思った。
 ともあれ、気をつけるべき点は二つ。一つはメインとなる場所の映像イメージを鮮やかにすること。もう一つは、主人公の心情(葛藤) を画で表現するということ。
 いくら面白い発想があっても、どう映像で表現するのかというテクニックがなければ全く意味がない。とにかく読んでもらわなければダメなのだ。好き勝手に書いて、どうだ読んでみろというのでは絶対にダメだ。
 シナリオは人に親切でなければならぬ。一人よがりではいけない。ある意味作家の思いを捨てて人物の中に死ぬ覚悟と勇気が必要だ。だがそれがひるがえって作家自身を表現するということでもあるのである。
 小説でもそうだが、若い人のものを読むと、自分が捨て切れないがために、感性はいいのに、作品をみすみす殺してしまっているものが結構ある。描写、表現というものと、自己主張というものを、混同している人が多く見受けられる。その根っこに、自己満足という、不純なものを感じる。それではプロの作家にはなれないと思う。
 自分が凝りに凝って表現していると思うものを、作品から全部外してしまった時に、いったい何が残りますか? ということだ。所詮装飾は装飾だ。主体には絶対にならない。身ぐるみ剥がされて何も残らないようでは困るのである。そして、わかりやすくても難解でも、名作と呼ばれるものには、この主体があるのである。
 主体とは何か。今までにも散々書いてきたが、己の“切実なる想い” にすぎない。怒りでも悲しみでも憎しみでも、おそろしさでもいい。それが根底にないものは、いくら書いても見世物以下にしかならない。
 タルコフスキーもパラジャーノフもアンゲロプロスもヒッチコックもトリュフォーもカサベテスも小津も溝口も黒澤も成瀬も、作品の中に徹底した主体があるのだ。上っ面だけでなく、芯から、それがある。でなければ、人は観ないし面白くもないし、感動もしない。
 今、小説において勘違いするのは、書いたものがすぐに公にできるからだ。いや、できたと錯覚しているからだ。ネットでも紙でも、つくろうと思えば今はパソコンがあればできてしまう。自分を作家だと思い込んでしまう。ある意味、不幸な時代である。
 あかん、また脱線して説教してしもた。ト書きに戻る。
 ト書きにおいて、過剰ト書き(過剰な描写)や過少ト書き(描写の不足)といった技術的な問題以上に、やってはならないのは、作家が自分自身に酔った描写だ。その描写が映画のためになっているのか、ひいては観客のためになっているのかすら考えない描写を、私は軽蔑する。
 作家が“神の眼” になったとたんに、作品は死んでしまう。作家なんて所詮は乞食商売なんだから、地べたギリギリに目線を下ろして、人々の足を見て生きてゆくのがちょうどいい。いや、足もとから書かないと、よい映画にはならないのだ。
 時々、人物をコマのように動かしている商業映画を観る。腹が立つ。カッコつけて、人間の人生をないがしろして、何が映画だと怒りすらおぼえる。

 喜びや悲しみ、苦しみ、憎しみといった人物の内面的葛藤を、シナリオにおいてより深く表現するのは困難な問題だ。それができる脚本家は少ない。たいがいは、横(ストーリー) に逃げてしまう。テレビドラマならそれでいいかもしれない。だが、映画はそれでは困るのだ。
『激突』(一九七三年・米映画/原作・脚本 リチャード・マシスン) という映画があった。スティーブン・スピルバーグ監督の初期の傑作である。しがないセールスマンの主人公と巨大なタンクローリーの運転手が、死闘を繰り広げる物語だ。いや、運転手の顔は最後まで見せないから、ほぼ主人公だけの物語といってもいい。この映画のすごさは、アナログのカーアクションもさることながら、横(ストーリー)に逃げないということだ。外的な援助を排除して、徹底的に主人公を追いつめてゆく。そこにあるのは頼りない、どこにでもいる、主人公の肉体一つだ。
 この映画をシナリオに書き起せば、ト書きト書きのオンパレードだろうが、いかに主人公を追いつめるかの一点だけで書く、画で表現する、ということになろう。それが映画なのだといえるし、スピルバーグ監督は本当に映画をよくわかっている監督ということになる。
 主人公の運転する車で、タンクローリーを追い越したことから命を狙われるわけだが、たとえばここで援助を申し出る誰かを登場させたとたんに、それはテレビドラマになってしまう。この映画において、人間が心の底に持つおそろしさ、日常に潜む狂気を表現したいのならば、それでは困るのである。人物の気持ちに安全弁をつけてしまっては、観る者の緊張は半減してしまう。
 
 私は、テレビドラマは“歌舞伎的” であり、映画は“能” 的でなければならないと思っている。
 テレビドラマの相対論は善があって悪があるという二元論、安心安全健全な世界だ。だが映画は、悪を悪としてつらぬき、ぬきさしならぬ命のあやういやりとりを、暗闇の中で経験させてくれなければ困るし、そうしたものを私自身もつくりたいと考えている。
 だが昨今の映画は、絶対論で語られることが少なくなくなってしまった。テレビ局の資本が投入されている以上は、致し方ないと思うが、かつてのATG映画のような、危険きわまりない諸刃のあぶない映画など、夢のまた夢になってしまった。
 いや、絶対安全の映画だって必要だ。だが、そればかりでは作り手や観客に、進歩はない。なまぬるい環境の中で、ただただ、映像を垂れ流しているだけだ。
 また余談になってしまった。ごめんなさい。
 ト書きに戻る。ト書きはセリフ以上に人物の心情を表現するものだ。そのことに留意するだけでも、ト書きに厚みができ、ひいては映画全体の奥行きも出てくるのである。ただ、完璧なト書きを書こうと思えば、圧倒的な読書量と、書く量が必要だ。私は怠け者だが、シナリオの勉強はしてきたつもりだ。ところが三十年経ってみて、シナリオがおぼろげにしかわからないという体たらく、いや、まだ全然わかっていないのかもしれないと、恐怖すらおぼえる時がある。まあ、だからこそ勉強を続けるのだろうが……。
 次回はセリフについて書こうと思っている。
 それまで皆さん、お元気で、さようなら。
                                       了

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。