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極私的シナリオ論3〝構成(コンストラクション)〟 松下隆一

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 さて、今回はシナリオにおける構成(コンストラクション) について書いてみる。例によってボケ老人のごとく前回、前々回の中身と重複するところもあろうかと思うが、ご勘弁ご寛恕願いたい。
 
【1】
 シナリオにとって構成は、テーマや人物造形の次に大切なことだ。いわゆる“起・承・転・結” または“序・破・急”、“始まり・中盤・終わり” という劇形式は古今東西を問わず脈々と受け継がれてきた伝統でもあり、この基本構成を疎かにしてオモロイ劇映画はできないといっても過言ではない。
 いや、劇形式と書いたが、これは人間の、必然の形式でもある。我々がふだん生きているこの日常世界というものの成り立ちが“起・承・転・結” であり、“序・破・急”であるといってもよい。
 またオッサンわけのわからんことを言い出したナ、と思わないで頂きたい。例えば貴方がある日突然何かとんでもないことに巻き込まれたとしよう。事件でも事故でもいい。そうすると当初はなぜこんなことになってしまったのかという葛藤に苛まれる。その葛藤をどうすればいいのかと考え抜く。そして解決のための行動に至る。いや、行動できないままに挫折するかもしれない。とにかく、やがては一つの結末を迎える。つまりはこれが“起・承・転・結” の世界というものだ。
 大きな事故や事件でなくてもいい。学校や職場、飲み会の席で起きる日々の出来事だってそうだ。ちょっとした人間の心の揺れ動きの中にも、“起・承・転・結” の物語性が潜んでいるのである。
 物語といえば、ともすれば日常と切り離し、別世界の出来事のようにとらえがちではあるが、人間というものは、日々の暮らしの中で知らず知らずのうちに“起・承・転・結” の劇構成を体験しているのではないだろうか。
 
 構成は、事件や事情の配列の試行錯誤といった、一見実にテクニカルな感覚でとらえられがちであるが、もっと単純化して、骨の部分だけを抜粋するとすれば、“人物の心情の流れ” だけで事足りるのである。
 まず最初に、数行の物語の発想が頭に浮かぶ。主たる人物像も同時に浮かぶ。そしてそれを文字に起こし、プロット化してみる。その際、人物の心情の流れがどうなっているのか、それだけを抜き取って考えてみるのがよい。そこで人物がストーリーの犠牲になっている場合、心情の流れに矛盾や無理が生じているはずである。そして“起・承・転・結” の“転” が成立していない場合が多いのである。
 また、主人公の心情が全く反映されていないか、主人公に何らかの影響が及ばないようなシーンがあるとすれば、その殆どは不必要なお飾りシーンか、説明的なシーンといってもよい。
 
 構成の作業をする際に気をつけるべきは、己の思考の、柔軟性の乏しさであろうか。知らず知らずのうちに予定調和の流れに洗脳され、これはこうすべきなのだという固定観念を持ってはいないだろうか。本当の構成というものは、それを打ち破るところから始まる。例えば貴方が考えている主人公が男なら、それを女にしてはどうか、クライマックスと考えているところを冒頭にすればどうかといった、大胆に180度転換できる柔軟な発想こそが、構成の肝心要ともいえよう。
 初心者のシナリオによくあるのが、「で、キミ、ここから物語はどうなるの?」というものだ。長々と書いているのはシナリオ(芝居) ではなく、バックストーリーであったり、事情説明であったり、葛藤の発端部分であったりする。これは構成以前の問題ともいえる。自分が描きたい世界の、とっておきの部分を冒頭部にサッサと出してしまった後にどうなってしまうのかという、この潔さ、開き直りに考えが至らなければ、構成などとてもできないのである。
 
 私の師匠は中村努といい、かつては『座頭市』でおなじみの勝新太郎さんとよく仕事をした方だが、先生に当時の話を聞くと、固定された思考、決めごとが一切なかったようである。ついさっきまで良しとしたプランが、次の瞬間にはNGといったことが多々あったという。だから、場合によっては撮影当日までシナリオがない、という信じ難い状況が当たり前のように起きてしまう。まあ幸いにしてスタッフは大映京都という超一流の人々だったので、それはそれで対応できたのであり、彼らは職人気質として逆にその緊張感を楽しんだと聞いたこともある。
 とにかく勝さんにとって芝居とは“今そこで起きていること” であり、過去形ではないのだ。だから予め決められたものには懐疑的であった。予定調和をとことん嫌った。即興的な生きた芝居こそが命だった。芝居が固定観念にとらわれたとたんに、それは作り物になって、嘘になると思われたのかもしれない。だがそれは同時に、スタッフも演技者も次の瞬間に何が起きるかわからないという、おそろしいまでの緊張感にさらされることでもあった。一歩間違えれば作品のクオリティを低下させるリスクが伴うことなのだが、逆にそれがハマれば、新・座頭市・第10話『冬の海』(脚本:勝新太郎/中村努) や座頭市物語・第23話『心中あいや節』(脚本:星川清司) などのように、飛び抜けて詩情あふれる佳い作品になるのだった。
 結論としていえば、勝さんの論法は正しい。なぜなら、我々が生きているこの世界に、予定調和など一切介在しないからである。とはいえ、勝さんのような手法で映画やドラマをつくった人は、後にも先にも勝さんただ一人だ。天才・勝新太郎の面目躍如といったところか。
 また話がそれた。何が言いたいのかといえば、構成するにしても、芝居は生ものなのだから、固定化されることに注意すべきだということである。
 
 
【2】
 第二回シナリオ論で紹介した橋本忍先生の『複眼の映像―私と黒澤明』(文藝春秋社刊) の中で、映画『生きる』(1952年/東宝) のシナリオを執筆するプロセスの、興味深いエピソードが紹介されている。

 橋本先生と黒澤明監督が旅館にこもって二人で冒頭部分を執筆しているところに、別の仕事で一旦抜けていた小國英雄先生が戻って来たのだが、途中まで書いたシナリオを小國先生が一読して、「これはアカンなァ」と言い放ったのだ。苦労して書いたペラ3、40枚である。当然黒澤監督は怒る。
「小國! なにがアカンのだ!」と黒澤監督が激怒して小國先生に詰め寄る。橋本先生が聞いていると、小國先生は黒澤監督に小声で何事か自分のプランを話す。すると黒澤監督はまた怒鳴るのだ。
「お前の言う通りなら、渡辺勘治は途中で死んでしまう!」
「死んだっていいじゃないか」
「なに!」
「渡辺勘治が死んだからって、後が書けない訳はないよ」
 渡辺勘治は『生きる』の主人公である。その主人公が途中で死んでしまうというのだ。それは黒澤監督でなくとも脚本家なら誰だってその先をどうするんだと問うだろう。しかし、小國先生はこの時点で、黒澤監督や橋本先生よりも『生きる』という作品全体を見通していた。完璧に人物を彫るプロセスの中で、テーマも手に取るようにつかんでいて、それを黒澤監督に示したのだ。
 凡庸な監督や脚本家なら、余命幾ばくもない者が主人公となれば、彼が死ぬまでのプロセスを劇的に描こうとするだろう。いや、未だに“難病もの” といえば、このおそろしくパターン化された構成の呪縛から逃れていないといってもいい。その方が“泣ける” “感動する” と考えるからだ。だがそうした思考に陥ったとたん、作品個々にあるはずのテーマがパターン化され、どこにでもあるお涙頂戴のドラマに成り下がってしまう。最悪ストーリーのパターン化は許されても、テーマのパターン化は絶対に許されないのだ。
 だが、小國先生をはじめとする黒澤監督、橋本先生という頭抜けたセンスのある脚本家たちは、それが間違いだと気づき、大胆な構成を採用することによってテーマを際立たせるどころか、人物さえもさらに生きた存在にしたのである。
 
『生きる』は“生きる” 物語だ。“死ぬ” 物語ではない。死ぬ運命にある人間が、どれだけ美しく、誇り高く生きるのか。“死ぬ” を“生きる” に大転換する面白さがテーマなのだ。小國先生はそれを最初から見通していた。だから主人公を途中で死なせ、通夜の席で同僚たちによって、客観的に主人公の葛藤を推理させ、どう生き抜いたかを語らせることで、我々観客は主人公の“死ぬ” ことに同情するのではなく、“生きる” ことに感動するのだ。もっと言うならば、映画を観終えた後、死がまだ遠い存在だと思っている我々は、お前は明日からどう生きるのかという、一生の宿題を与えられるのである。
 人物とテーマと構成──この三つが渾然一体となって物語に作用した時、作家の予想をはるかに超えた物語が生まれる。『生きる』という映画は、その代表格といってもよい。
 余談ながら、当初『生きる』のタイトルは『渡辺勘治の生涯』であった。『生きる』というタイトルをつけたのは黒澤監督である。これもテーマからの逆算であろうが、こちらの方が野暮ったくなくてイケてる。いいタイトルだと思う。いや、タイトルだけではない。時代背景はともかく、テーマも人物も物語も、全く古さを感じさせない。日本映画のシナリオ史上、間違いなく五指に入る傑作である。
 
 
【3】
 さて、『生きる』と関連して、“難病もの” 映画といえば、我々の世代で思い浮かぶのは何といっても米映画『ある愛の詩』(1970年/監督:アーサー・ヒラー/脚本:エリック・シーガル) であろう。フランシス・レイ作曲の甘いメロディにのって、ライアン・オニールとアリ・マッグローが繰り広げる悲恋の物語に、当時の女性たちは感涙したものである。「愛とは決して後悔しないことですよ」と父親に言う主人公のセリフは、この映画のすべてを物語っているといってもよい。
 けれども、この映画が不満なのは、難病以外の心的葛藤要因に、恋愛の障害という外的な力を用いたことであった。つまり身分差というものが二人の愛の妨げになるという構成なのだが、なるほどこれはわかりやすいとはいえ、結局それはヒロインが死ぬことであっさりと解決するという安易さを孕んでいる。いや、死をロマンティックにとらえ、お涙頂戴であるならばそれはそれでいいが、テレビドラマではなく現代の映画にするならもう少し踏み込んだ構成、テーマが必要なのである。
 
 そういう意味では、同じ“難病もの” のラブストーリーでも、韓国映画『八月のクリスマス』(1998年/監督・脚本:ホ・ジノ/脚本:オ・スンウク、シン・ドンファン) は『生きる』同様に、深いテーマを追っている。 

 この映画は、難病に侵され、死期が近い主人公の写真店店主、ジョンウォン(ハン・ソッキュ) と、交通取締官の女性、タリム(シム・ウナ) との恋愛を軸に、出会いから別れまでを描いている。『生きる』とは違い、ラストに主人公を死なせるというパターン化された構成であるにもかかわらず、主人公、ジョンウォンとタリムの関係性、かかわり方において、オリジナリティある構成を採用している。
 そのポイントは、観客はジョンウォンの死期が近いと早い段階で知らされるが、タリムには最後まで一切知らされないということだ。通常、凡庸な難病ものであれば、彼女にどこかのタイミングで事情を知らせ、その悲しみで観客を煽ろうとする。だが脚本も担当したホ・ジノ監督は、そのパターン化された情緒を徹底的に排除した。 
 結果、ジョンウォンの、死に向き合う、非情なまでのつらい心情が浮き彫りにされる。しかも彼は、つらい表情や葛藤する姿を彼女に一切見せない。そればかりか家族に対してですら極限まで耐えてみせる。表立っては、耐えている姿を一切見せない。ジョンウォンはいつも笑顔なのだ。真夏の太陽のような笑顔を常に浮かべている。その抑制が、観客の胸をうち、死なないで欲しい、恋を成就させてやりたいと願わずにはいられない。
 
 ジョンウォンが父親にビデオのリモコンの操作方法を教えるシーンがある。観客はその行為を通して、ジョンウォンが死ぬ前に少しでも父親の役に立ちたい、父親一人が残されても不自由なく生きてゆけるようにと願うその切実な心情を感じる。だが、父親は全く操作方法を覚えられず、ジョンウォンは怒りの感情をぶつけてしまう。これが唯一、ジョンウォンが感情的になるシーンなのだが、全く死とかかわりのない芝居なのに、かえってジョンウォンの死が感じられて観ている方はつらい。なぜなら、それは何でもない日常の一コマであるからだ。観客はジョンウォンがいずれ死ぬことを知っているので、本来は微笑ましく幸せであるはずの日常の一コマが、この上なく残酷なシーンに見えてしまう。
 この映画のクライマックスは……と、やめておこう。いつもの悪いクセで、浜村淳氏状態になるところであった。とにかく、ジョンウォンがタリムに病気のことも、愛しているということも、伝えるのかどうするのか、その二人の心情の距離感そのものがサスペンスとなり、物語の全体を貫いている。この徹底した構成は技巧といえば技巧だろうが、二人の心情の揺れ動きそのものなので、全く技巧には感じられない。
 そして、映画らしい対比がなされ、それが功を奏している。つまり、画面いっぱいの光、明るさだ。暗い影が殆ど見られない。それが唯一の影である、主人公の“死” を際立たせている。死を間近にしたジョンウォンの心情を、徹底的に抑制するという構成の狙い、その意識が全編に漲り、観客は緊張感の果てに深い感動を覚えるのである。またハン・ソッキュの演技は素晴らしく、シム・ウナも瑞々しい演技で、抑制されたホ・ジノ監督の演出もさることながら、我々の身近に本当に生きているような二人に見える。
 
 人を本当に愛するということ、人間の優しさとは、どれだけその人を思いやるかということであり、ジョンウォンはそれを命と引き換えに、我々に見せてくれる。ここに人間としての心情の深さ、テーマの深さがあるのである。「愛とは決して後悔しないこと」でもいいが、それでは死んだ者が浮かばれまい。極論を言えば、芝居に人物を利用したということであり、涙を流してストレスを解消させたに過ぎない。
 本当に佳い映画というものは、本来、観た者の人生の後々にまで、影響を与え続けるものなのである。
 ともあれ、この『八月のクリスマス』はホ・ジノ監督の処女作であり、おそるべし才能、というべきか。余談ながら、ホ・ジノ監督が最も影響を受けた映画監督の一人が小津安二郎監督である。人物の心情を大切に扱い、繊細なタッチで描いているところをみれば、それも頷けるというものである。
 
 
【4】
 さて、構成で重要なのはサスペンスのかけ方だ。推理ものやアクションものに限らず、前述のラブストーリーや人間ドラマにもそれは絶対的に必要だ。サスペンスがなければ緊張感も生まれず、物語は弛緩した、冗漫なものになってしまう。中でも一番むつかしいのはやはり人間ドラマだろう。
 気をつけねばならないのは、情緒に流されることだ。作家だけが悦に入って、無駄に情緒的あるいは感傷的なシーンを連ねたりする。いや、感傷的であってもかまわないが、そこにはやはりサスペンスがなければならない。魅力ある人物からはっきりとした狙いのあるサスペンスを生み出し、それにもとづいて全体を組み立て、緻密な構成を施さねばならぬ。
 ではそのサスペンスについて、一本の映画をもとに具体的に書いてみたいと思う。
 
 戦後間もなく、『素晴らしき日曜日』(1947年/監督:黒澤明/東宝)という映画がつくられた。「またクロサワかいな」とおっしゃるな。とにかく黒澤作品は映画の教科書なのだから仕方がない。(ちなみに断っておくと、私は“ミゾグチ派” なのデス。)
 さて、その『素晴らしき日曜日』のシナリオは黒澤監督と、尋常小学校の級友だった脚本家、植草圭之助氏が共作したものだが、そのシナリオ創作の過程が、植草さんの著書『わが青春の黒沢明』(文春文庫刊) で詳しく書かれているので紹介したい。
 ストーリーは単純だ。戦後間もない、日本がまだ貧しかった頃、若い一組のカップル(雄造と昌子) がいる。とにかく二人には金がない。そのためにデートをしても惨めなことばかりが続く。そんな二人の一日を追っただけの映画である。
 だがそのシンプルさゆえに、構成は工夫しなければならなかった。しかも予算の都合でノースター、オールロケーションでやれという会社の命令だ。シナリオ作りも困難を極めるかと思われたが、植草さんが実体験を色濃く反映させた第一稿を書いたことでリアリズムが生まれ、黒澤監督も乗り気になった。だが黒澤監督は、植草さんの作家としての優れた資質は認めながらも、テクニックはまだまだだとズバリ指摘する。そのテクニックとは構成に寄るところが大きかった。
 第二回のシナリオ論において、実体験にもとづく創作の危うさを書いたが、植草さんはここでそれを黒澤監督に指摘される。中盤部分、昔つきあった女性との想い出をシナリオに取り込んだのだが、その部分を黒澤監督は「甘ったるい」と斬って捨てる。そこはまさに作家が実体験に酔って書いたところで、指摘された植草さんは赤面する。
 つまり起承転結の“承” の部分が情緒に流されて物語を冗漫にしていたのである。シナリオを学ぶ若い人からよく訊かれるのが「承の部分をどう書けばいいのですか?」というものだ。主人公が抱える葛藤がどうなってゆくのかというのが承の部分でもあるのだが、その描き方というのは、とてもテクニカルな部分でもあり、作家のセンスが問われる部分でもある。
 黒澤監督は植草さんの第一稿における中盤の弱さ、甘ったるさを指摘すると同時に、自らのプランを語る。批判するだけでなく、同時に、直感的に、自分のプランを話すのは優れた映画監督の証だ。
 黒澤監督は、弛緩した中間にサスペンスが必要だという。観客がドキッとするようなサスペンスをかけるのだ、と。みじめなデートになってイライラした雄造が清純なる昌子を自分の部屋に招き入れ、そして強引に体を求めようとする。当然昌子は葛藤し、苦悩する。同時に観客は二人の関係がどうなるのかとハラハラとして行く末を見守る。これがサスペンスだと、黒澤監督は植草さんに言う。
 

『とにかく、映画ってやつは、どんなワン・シーン、ワン・ショットの中でも、つねに、人物と人物、人物と事物、情景と情景、あらゆるものが相剋し、対照、変化、発展してるんだ。それらの場面と前後の場面とが、対立し合ってすすまなければ……。テンポとリズムだよ。……クィック、クィック、スロー、その精力的な繰返しなんだ』(植草圭之助著「わが青春の黒澤明」〈文春文庫刊〉より)

 
 これが構成の極意、といってもよい。
 余談ながら黒澤監督はしばしば“クロサワ天皇” などと揶揄されたが、あらゆる作家の中で、完璧を目指さない者があるだろうか。妥協は作家の敵だ。そしてその敵は己自身の中に棲みついているものなのである。ましてや映画は資金をはじめ、あらゆる制約でがんじがらめにされることが多い。その中で闘ってきて、世界にその名を広めた黒澤監督こそが真の芸術家といえよう。
 また、黒澤監督は植草さんのテーマ性、人間のつかみ方などを認めつつ、こうも戒めている。
 

『……かの有名なアラン大先生も、ズバリと書いているだろう、“芸術とはまず技術だ” って。いくら中味が良くても、それを読者や観客に完全に伝えることができなかったら、零もおなじだ。そうは思わないか?』(植草圭之助著「わが青春の黒澤明」〈文春文庫刊〉より)

 
 構成とは離れるが、特筆すべきは黒澤監督が読者や観客といった“受け手” を強く意識しているということだ。どう表現するかもさることながら、受け手にどう伝えるか、伝わるかということを創作の軸に置いている。
 映画は大衆の芸術だ。黒澤監督は巨匠と呼ばれながら、そのことを体現した数少ない監督の一人ともいえよう。
 
 
【5】
 構成のむつかしさは、いい意味で観客を裏切ることだ。だがそれはハッタリであってはならぬ。必ず、登場人物を尊重しなくてはならない。ストーリーはいくら裏切ってもいいが、人物そのものを裏切ってはいけないのである。尤も、その人物というものが、もともと練り上げられていない存在だとすれば、はなからその映画は破綻しているともいえよう。
 
 クリント・イーストウッド監督作品の米映画『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年/脚本:ポール・ハギス)、『グラン・トリノ』(2008年/脚本:ニック・シェンク)といった作品は、主人公と構成とがピタリとはまって、いい意味で観客を裏切ってくれる秀作である。イーストウッド監督は、“佳きシナリオが、佳き映画を生み出す” ことを明確に知らしめてくれる、今では数少なくなってしまった映画監督の一人だ。

 
『グラン・トリノ』は朝鮮戦争で戦った経験を持つ頑固で偏屈で、末期がんを患った元軍人の老人と、隣に住むアジア系の少年(家族) との交流を軸とした物語である。少年の親戚筋にギャングの若者たちがいて、少年を悪の道に引っ張りこもうするのを老人が助ける。ギャングたちはそれを恨みに思い、少年の姉をレイプするなどの行為に及ぶ。ここまでくれば最後は派手にドンパチかと思いきや……いや、危ない危ない。また浜村淳氏状態になるところであった。とにかく、人物だ。人物から逆算をして、この人物だからこういう劇的展開が生まれるのだという、優れた構成になっている。
 
『ミリオンダラー・ベイビー』に至っては、もっと大胆な試みをしている。この作品は老トレーナーと女性ボクサーの物語だ。そうなれば観客は当然、女性ボクサーのサクセスストーリーを期待する。だがそれは、彼女が試合で反則パンチを受け、全身麻痺状態となるという構成によって見事に裏切られる。勿論いい意味で、だ。そして彼女は老トレーナーに自殺幇助を頼む……。つまり、スカッとするはずのスポーツから、安楽死という問題に、劇的に転換し、より強いサスペンスをかけて成功した映画なのである。
 
 近年のイーストウッド監督作品の特徴は、重たい社会問題を根底に持ちながら、娯楽作品として観客に観せるという、稀有なスタイルにある。そしてなぜ娯楽作品として成立しているのかといえば、人物の造形に尽きる、と思う。とにかく人物の性格、バックストーリーがしっかりとしている。だからどのような構成になっても人物そのものが揺るぎない魅力を放っているので、構成に納得し、物語に引きずり込まれるのである。
 観客はそのリアリティある、魅力ある人物と巧みな構成に惹かれ、映画を観始める。そしていつしか根深い社会問題に巻き込まれていることに気づき、観終えた後、深い感動とともに社会問題について思考せざるをえないのである。
『グラン・トリノ』を観れば、少年犯罪や暴力、銃器というものについて考えるだろうし、『ミリオンダラー・ベイビー』を観れば、尊厳死、安楽死について考えるだろう。
 イーストウッド監督と脚本家たちは、映画にとって、何より大切なのは人物であるということを知っている。だから、どの映画を観ても破綻はなく、骨太でありながら娯楽作品として楽しめるのである。
 
 余談だが、おりしも最近、脳腫瘍に侵された余命僅かな20代のアメリカ人女性が、安楽死の道を選び、予告通り死んだというニュースがテレビやネットで取り上げられていた。同時に、脳腫瘍に侵されながら、バスケットボールの試合に出場した10代のアメリカ人女性も取り上げられ、話題になっていた。
「本当に考えさせられる問題ですね」というテレビ番組内でのコメントを、何度聞いただろうか。だが作家がそういう他人事のコメントを吐いてはならぬ。彼らは何も考えてはいない。考えたとしても一瞬だ。作家はそれでは困るのである。
 作家は自分の問題としてとらえ、とことん考え抜かねばならぬ。死の選択が是か非かなどという、短絡的思考に低回していてはいけない。作家の仕事は、当事者の筆舌し難い苦悩のプロセスを想像し、それを読み手や観客に生生と伝えることだ。感動とは共感であり、共感とは同化することなのであって、分析することではない。
  
 人生において真に大切なことはたった二つのことだけだ。即ち、“生きる” ことと“死ぬ” ことである。悲劇はもちろんだが、喜劇だってそこに行き着かなければ喜劇とはいえず、コントになってしまう。映画はコントではない。人間が生きている本当の世界でなければならない。
 
『ミリオンダラー・ベイビー』において、イーストウッドは徹底的に考え抜いたと思う。それがラストの答えだった。だがそのむつかしさはあくまで、老トレーナーの意志でなければならなかったことであり、老トレーナーの生き様、哲学でなければならなかったことだ。
 作家と人物の意志、価値観がピッタリ合うという時、それが作家のエゴではないかと危ぶむべきだ。だがズレた時、あるいは真逆であった時、人物が守られ、かえって作家性が際立つのだと考えるべきだ。尤もそれは、人物がしっかりとつくられているという大前提があっての話だが。
 人生の重大な選択を他人に任せるバカはいない。(尤も、結果的に他人の責任にする者はいるが) 観客はスクリーンの中に、今生きている人間を観ている。作家は人物の中に死んでこそ、作品の独立性が保たれ、優れた作品が生まれるといえよう。
 
 作家の考えに考え抜いた創作態度というものは、必ず、作品に反映され、読み手や観客に小さくない影響を与える。佳い作品を創ろうと思えば、テーマも人物も構成も、ト書きもセリフも、一つ一つ地道に考え抜いて積み上げてゆくしかない。それは気が遠くなるような作業だ。作家は、自分が納得のゆくまで思考し、書く(創る) しかないのだ。近道など一つもない。だからシナリオ(映画) も小説も、本来は空気を吸うように書けてしまうものではないはずだ。時間もかかるし体力も使う。
 オリジナルの、数々の名作を観ていると、つくづくそんなことを身に沁みて感じる次第である。これらの作品に共通するのは、設定がシンプルで、構成が大胆且つ繊細ということだ。とにかくわかりやすくて深い。だが、シンプルということは、奥行きを出すという困難も待ち構えている。凡庸な作家ほど、物語を横に広げようとする。そのための人物をつくって本質から逃げようとする。だが、佳き作家は逃げないで闘う。極限にまで妥協しないで、テーマを貫こうとする。たとえその作品がお蔵入りになったとしてもだ。
 ダメな作家ほどテーマや人物を疎かにして、作品のための作品、世に作品を売るがための策を講じ、胡麻をすり、安易に妥協する。まあ尤も、食うためには仕方ない場合もあるのだが、いや、食えなくても妥協しなかった作家も数多くあるのだ。
 もとより食えない我々はとにかく、逃げないで闘おうではないか。(誰に向かって言っているのかわからないが)
 
 ああ、また構成の話からズレてしまったような……反省反省。
 というわけで、このへんでお開きとしますが、次回は“ト書きとセリフ” について書いてみようかなと思ってオリマス。
 
 

『未だ生を知らず  焉ぞ死を知らん』(「論語」より)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。