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ハルムスを読もう! 第五回「ゴキブリの予言」

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ゴキブリの予言
 

 ロシア文学にはゴキブリがよく登場します。
 ノーベル賞作家のソルジェニーツィンの小説『マトリョーナの家』には、「床も、ベンチも、いや、壁までが一面褐色になってうごめいている」(木村浩訳) というおぞましいゴキブリ描写があります。
 また、ドストエフスキー『悪霊』にはレビャートキン大尉という人物が出てきますが、彼は「ゴキブリ」(江川卓訳では「あぶら虫」) という寓話詩を作中で披露しています。ゴキブリがコップに落っこちた災難を描いたこの詩は、それから約六十年後にオレイニコフの『ゴキブリ』という詩のモチーフになりました。
 オレイニコフ(一八九八―一九三七) は「オベリウ」グループの正式なメンバーではありませんでしたが、ハルムスら「オベリウ」の面々と親しく付き合っていました。また、オレイニコフの創刊した児童文学雑誌『ハリネズミ』には、ハルムスやヴヴェジェンスキー、ザボロツキーといった「オベリウ」のメンバーが詩や小説をたくさん発表しています。
 オレイニコフは編集者であると同時に詩人であり、多くの詩を書いていました。その一つが『ゴキブリ』(一九三四年) です。
「ゴキブリがコップの中に落っこちました」というレビャートキンの寓話詩の一節をエピグラフに掲げた『ゴキブリ』は、そのゴキブリの悲しい運命をユーモアを交えて描き出してゆきます。
 コップの中に落っこちたゴキブリは、「処刑人」、「斧をたずさえた解剖人」たちに「一〇四個の器具」で「ばらばらに引きちぎ」られ、その身体損壊と痛みのせいで死んでゆきます。やがて庭に抛り棄てられた彼を待ち受ける結末は、次のようなものです。
 
  彼の干乾びた骨に
  小雨が降り注ぐだろう、
  その空色の目玉を
  雌鶏がついばむだろう。
 
 オレイニコフ『ゴキブリ』に描かれているのは、一九世紀ロシア文学の伝統的テーマである「ちっぽけな人間」だとみなすことができるでしょう。富農や貴族など大きな権力の持ち主から「虐げられた人々」(ドストエフスキーの小説の書名)を慈愛をもって、しかし冷徹に描破することがかつてのロシア文学の伝統でした。オレイニコフもその伝統に連なっているのです。
 
 

 ところで、前回紹介したハルムス『エリザヴェータ・バム』(一九二七年) の中にもゴキブリが登場します。
 こちらのゴキブリは「ゴキブリ・ゴキブリノヴィチ」と、まるで人間のように呼ばれ、「赤い襟のシャツを着て両手に斧を構えて」います。エリザヴェータ・バムは身に覚えのない罪で逮捕され、これからそのゴキブリ・ゴキブリノヴィチが斧を手にして待っている山上の小屋に連行されてゆくのです。つまり、ここではゴキブリは「処刑人」の役割を担っていると考えることができます。
 オレイニコフ『ゴキブリ』ではゴキブリの方が「処刑人」や「斧をたずさえた解剖人」によって体を引きちぎられてしまうのに対し、『エリザヴェータ・バム』ではゴキブリが斧を構えた「処刑人」なのです。
 オレイニコフの詩ではゴキブリは「虐げられた人々」すなわち「ちっぽけな人間」を体現していましたが、ハルムスの戯曲ではゴキブリが「ちっぽけな人間」を「虐げ」る側なのです。
「ちっぽけな人間」を虐げるのは誰なのか?
 一九世紀ロシア文学においては、それは権力者でした。その定式を『エリザヴェータ・バム』にも当てはめれば、ゴキブリ・ゴキブリノヴィチは権力者ということになります。
 ハルムスの生きたソ連時代の権力者として最も悪名高いのはスターリンです。ところが『エリザヴェータ・バム』が書かれた頃はまだスターリンが台頭する前であり、ハルムスがスターリンを念頭に置いてゴキブリ・ゴキブリノヴィチを登場させたとは考えにくいのが実情です。恐らく両者は事実として無関係でしょう。
 しかし、ここにもう一つ興味深い事実があります。児童文学作家コルネイ・チュコフスキーの書いた物語『大ゴキブリ』は、発表されたのが『エリザヴェータ・バム』より早い一九二一年だったにもかかわらず、そこに登場するゴキブリがスターリンを風刺しているのではないかと、後に疑われるという時代錯誤が生じたのです。
 スターリンがその勢力を拡大し始めると、奇妙なことに彼はゴキブリに喩えられるようになります。スターリンとゴキブリ双方に特徴的な髭が両者をきつく結びつけているようです。
 周知のように、スターリンは何百万人という途方もない数の無辜の人民を逮捕し、殺害しました。
 他方、『エリザヴェータ・バム』はヒロインが身に覚えのない罪で逮捕され連行されてゆくシーンで終わります。そしてその向かう先こそ「赤い襟のシャツを着て両手に斧を構えて」いる「処刑人」たるゴキブリ・ゴキブリノヴィチのもとなのです。
 先程も書いたように、ハルムス本人はスターリンを意識していなかったでしょう。しかし彼の書いた『エリザヴェータ・バム』は、その後まもなく訪れるソ連の悲劇を予言していたのです。
 その悲劇の登場人物を演じたのが、一九三七年に銃殺されたオレイニコフと、一九四二年に監獄病院で死去したハルムスその人でした。

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沢月尋(SAWATSUKI Hiro)

東京大学大学院。
ロシア語が読める児童文学愛好家を探しています。心当たりのある方はご連絡ください。
個人サイト「Kharms! Harms! Charms!」http://japonsko-russko.jimdo.com/
web連載「ロシア文学めぐり」https://i.crunchers.jp/s/54bc9e06ec11621c0702c7d2