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ハルムスを読もう! 第四回「不条理劇としての『エリザヴェータ・バム』」

ハルムスを読もう 第四回 不条理劇としてのエリザヴェータ・バム

 今では当たり前に使われている「不条理劇」という言葉を普及させたのは、マーティン・エスリン著『不条理の演劇』(原題:The Theatre of the Absurd)という一冊の研究書です。
一九六一年に初版が世に出たこの本は、ベケットやイヨネスコといった、それまで「秘教的な前衛劇」だと思われていた劇に新たな角度から照明を当て、それを「不条理劇」として再定義しました。
ところで、『不条理の演劇』が邦訳されたのは一九六八年のことです。「世界演劇の趨勢に支配的な力をもつにいたった」不条理劇を詳細に分析したこの本は、慧眼な訳者によって、イギリスで初めて出版されてから七年後に日本語に翻訳されました。
 しかし、その邦訳が出版されるより前に、エスリンは増補改訂版を出しています。そこでは何名もの不条理劇作家が分析対象に新たに加えられており、ムロージェックやヴィトキェーヴィチといった東欧の劇作家も含まれています。
 つまり、邦訳が早過ぎたために、ポーランドやチェコの劇作家は日本語版から零れ落ちてしまったのです。
 ただ、オリジナルであるエスリンの増補改訂版そのものさえ、書かれるのが早過ぎたと言うこともできます。なぜなら、ロシアの作家ダニイル・ハルムスは当時まだ「発見」されておらず、歴史の闇の中に葬られたままだったからです。
 
 ハルムスの代表作と目されているのが『エリザヴェータ・バム』という戯曲です。一九七一年に初めて英語に翻訳されたものの、それは誤訳や誤植が著しく多い不完全なテキストでした。もっとも、それは無理もなく、オリジナルであるロシア語版がソ連邦内(と言ってもロシアではなくラトビア)で初めて出版されたのが、英語版から遅れること十七年、ようやく一九八八年になってからのことだったのです。
『エリザヴェータ・バム』はじめハルムスの作品は、ソ連邦内のみならず、欧米の文学界に強い衝撃を与えました。早くも一九九一年にはロンドン大学からハルムスを本格的に分析した研究書が上梓されます。そして同じ年に、スイスのロシア文学研究者ジャッカールが決定的な仕事をしました。『ダニイル・ハルムスとロシア・アヴァンギャルドの終焉』という網羅的にハルムスを分析した研究書をフランス語で出版したのです。これは一九九五年にロシア語にも訳されました。
 ジャッカールの行った研究の最大の特徴は、ハルムスの辿った文学的軌跡を、ロシア・アヴァンギャルドから不条理文学への移行と捉えたことです。
 ジャッカールはハルムスをベケットやイヨネスコら不条理劇作家の先駆者として評価し、『エリザヴェータ・バム』をイヨネスコ『禿の女歌手』などと比較しています。実際、『禿の女歌手』が初演されたのは一九五〇年、またベケット『ゴドーを待ちながら』の初版が出たのは一九五二年のことで、『エリザヴェータ・バム』が書かれた一九二七年より約二十五年も後のことなのです。
 もちろん、書かれたのが早ければいいというものではありませんが、しかし欧米では、ハルムスは不条理作家の先駆者として確固たる地位を築きました。二〇〇〇年代に入ると、特にヨーロッパでハルムス・ブームとも称される現象が起きたと言われています。
 翻って日本ではどうでしょうか。ハルムスを日本に初めて紹介したのは沼野充義氏であると思われますが、それが正しいとすれば、一九八〇年頃のことです(『永遠の一駅手前』)。世界的に見ても早い方だと言えます。
 その後も単発的にハルムスや彼の所属したグループ「オベリウ」は日本に紹介されてきましたが、ハルムスの作品だけを集めた本が出版されるには、二〇〇七年まで待たなければなりませんでした(『ハルムスの小さな船』)。
『エリザヴェータ・バム』の翻訳は、日本のロシア文学ファンの間で随分長いこと待たれていました。確かにこれは邦訳するのが困難な戯曲で、『ダニイル・ハルムスの世界』(二〇一〇年)という見事な訳書を出したグレチュコ氏でさえ、「あれは訳すのが難しいですね」と私に話してくれたことがあります。
 二〇一一年、『ヌイピルシテェート』というハルムス作品集の中で、初めて『エリザヴェータ・バム』が邦訳され、日の目を見ました。しかしながら、ちょうど最初の英訳がそうだったように、残念ながらこれはかなり問題の多い翻訳でした。
 先日、私は自らこの『エリザヴェータ・バム』を訳し、自分のホームページに掲載しました。ハルムスに強い関心を持っている読者を主に想定しているため、詳細な訳注を施していますが、基本的には誰が読んでも楽しめる翻訳のはずです。
 なぜか日本でだけ紹介が遅れていたり漏れていたりする作家や本は、ロシア芸術に限ってもたくさんあります。邦訳のかなり遅れていたハルムス『エリザヴェータ・バム』もその一つでした。しかしそれは、ベケット、イヨネスコ、ピンター、オールビー、更にはムロージェックらの戯曲と比肩しうる作品であり、それと同時にそれらの先駆でもあるのです。

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Kharms! Harms! Charms!

sawatsuki

沢月尋(SAWATSUKI Hiro)

東京大学大学院。
ロシア語が読める児童文学愛好家を探しています。心当たりのある方はご連絡ください。
個人サイト「Kharms! Harms! Charms!」http://japonsko-russko.jimdo.com/
web連載「ロシア文学めぐり」https://i.crunchers.jp/s/54bc9e06ec11621c0702c7d2